TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午前11時のキス


 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

鬼頭の家の近くのコンビニで僕は車を止めて、彼女の帰りをまこと待っていた。

 

 

まこは車の窓を開け放ち、タバコを吸っている。

 

 

「なぁ、さっきの……」

 

 

煙を吐き出しながら、まこは呟いた。

 

 

僕はまこの横顔に目を向ける。

 

 

 

 

 

「今度問題になったら、教師やめる覚悟だって本気か?」

 

 

 

 

僕はまこの横顔から視線を逸らすと前を向いた。

 

 

「うん」

 

 

「何でお前……教師は夢だったんだろ?」

 

 

少し苛立ったようにまこが小声で言った。

 

 

「夢……だったよ。でも、彼女をあんな目に遭わせたのは僕のせいだ。彼女を護るためには夢だって捨てたってかまわない」

 

 

まこはせっかちにタバコを2、3口吸うと乱暴に灰皿に吸殻を押し付けた。

 

 

 

 

「んな大げさな。その勢いだったら責任とって結婚するとか言い出しかねないな。

 

 

てか彼女ってのは、鬼頭のこと?それとも楠のことか?」

 

 

 

さすがに結婚―――までは考え付かなかったけど、でも

 

 

まこの質問に僕の心臓がぎくりと縮み上がった。

 

 

 

P.216


 

 

僕は両の手のひらを広げてじっと見つめた。

 

 

 

 

 

 

怖かった。

 

 

血だらけになった鬼頭を見たとき、一瞬心臓が止まるかと思った。

 

 

 

僕は楠が自殺未遂をした現場を見ていない。

 

 

だけど、鬼頭の姿が楠に重なった。

 

 

 

助けられなかった楠の姿を僕は鬼頭に重ねているのだろうか。

 

 

それでもいい。

 

 

僕のせいで誰かが傷つくのはもうたくさんなんだ。

 

 

 

 

僕は自分の小指を見つめた。

 

 

 

 

鬼頭は……

 

 

絡めた小指に赤い糸を見たんだ。

 

 

血の色をした―――赤い糸を……

 

 

 

 

鬼頭と僕は赤い糸で繋がっているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

今、僕はどんな顔をしていたんだろう。

 

 

まこが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。

 

 

「楠の自殺未遂も、鬼頭の事故もお前のせいじゃない。お前のせいじゃないんだ」

 

 

 

諭されるように真剣に言われて、でも......こんなときでさえ眉を寄せて、真剣なまこのその目を見ているとどうしようもなく気持ちを伝えたくなる。

 

 

不謹慎だと思っていても……

 

 

僕は、誰かにこの苦しみを救って欲しいだけかもしれない。

 

 

それがたまたま僕の一番近くにいるまこなんじゃないかな。

 

 

 

 

もしかしてこれは錯覚なんじゃないか。

 

 

 

でも錯覚なんかじゃないって信じたい。

 

 

 

 

「お待たせ。荷物持って来たよ」

 

 

鬼頭の声で僕は我に帰った。

 

 

 

 

 

P.217


 

 

「荷物それだけ?」

 

 

鬼頭は小さなボストンバッグ一つだけ手に持って車に乗り込んできた。

 

 

タンドゥルプアゾンの香りが戻ってきた。

 

 

「うん。当面必要なものだけ持ってきた」

 

 

「男みたいな奴」と、まこが隣でため息を吐きながら言った。

 

 

 

鬼頭の登場のおかげで僕は自分を取り戻せた。

 

 

危うく自分の気持ちをまこに伝えてしまうところだった。

 

 

 

 

本当に危なかった―――

 

 

 

――――

 

――

 

 

鬼頭を僕のマンションに連れてくると、まこは一人で歩いて帰ろうとした。

 

 

「送ってくよ」という僕の申し出を、

 

 

「いや、今は鬼頭についててやれよ」とやんわりと断った。

 

 

「じゃ、じゃぁ夕飯一緒に食べてかない?ピザでも取るよ。僕は料理ができないし、鬼頭もこんなんじゃとてもじゃないけど何か作ってる余裕なんてないしさ」

 

 

 

「俺はいいけど、鬼頭は?俺のこと嫌ってるんじゃない?」

 

 

僕は「まさか」と思ったけど、念のため鬼頭のほうを伺う。

 

 

鬼頭は黙って肩をすくめただけだった。

 

 

どうやら嫌ってはなさそうだ。そのことにほっとする。

 

 

 

 

結局ピザを取ることになった。

 

 

 

薬が切れたのだろう...鬼頭は傷が痛むのか時折顔をしかめて肩や腕やらを撫でさすっている。

 

 

その度にまこが神経質そうに眉をぴくりと動かしていた。

 

 

 

「大丈夫か?」と言って鬼頭を見るその顔はとても優しく、いつかの千夏さんに見せた表情を思い出した。

 

 

 

 

僕の胸がまたちくりと痛む。

 

 

 

 

 

 

P.218


 

 

ピザが届いても、僕はまったく手をつける気になれなかった。

 

 

まこはいつもどおりの食欲でピザを口に運んでいる。

 

 

鬼頭は怪我のしていない方の左手で、食べるスピードは遅いが、それでも何とか食べている。

 

 

反対に僕の食欲は全く進むことなく、傍らに置いたビールだけがやたらと進む。

 

 

飼い犬のゆずだけが僕の周りを物欲しそうにいったりきたり。

 

 

「お前、飲んでばっかじゃん。ちゃんと食えよ。胃を壊すぜ」まこが咎めるように僕を見てピザを取ってよこす。

 

 

どっちみちピザなんて体と健康に悪い。

 

 

「そうだよ、ちゃんと食べなきゃ。ただでさえ細いんだから」

 

 

と僕の向かい側の鬼頭も軽く笑った。

 

 

 

鬼頭……

 

 

いつもどおりだ。良かった。

 

 

 

「こいつ、細く見えるけど意外と筋肉あるぜ。細マッチョっていうの?」とまこ。

 

 

「細マッチョ?先生が?うけるっ(笑)」

 

 

鬼頭は声をあげてからからと笑った。

 

 

いつもどおり……というよりいつもより上機嫌にさえ見える。

 

 

ゆずがいるおかげかな?鬼頭はゆずが可愛くてしかたないみたいだ。

 

 

ずっとゆずを撫でて、時折ゆずで遊んでいる。

 

 

沈んでるのは僕だけだ。

 

 

と言うよりも、鬼頭とまこ。意外に息が合ってるように見えるんだけど。

 

 

僕は向かい側に座る楽しそうな二人の姿を見ると、何故かお似合いだと思って、そしてそう思った自分にちょっと苛々を募らせる。

 

 

 

 

僕は、一体どうしたというんだろう。

 

 

 

 

 

P.219


 

 

夜も11時を過ぎると、まこはピザの残骸を片して帰っていった。

 

 

僕はと言うと、すきっ腹に飲んだビールが応えて視界がふらついていた。

 

 

目の前の鬼頭はふわふわと欠伸を漏らしている。

 

 

「そうだ、寝るとこ。鬼頭、僕の寝室使って?散らかってるけど」

 

 

僕はのろのろと立ち上がると、ふらつく足取りで寝室のドアを開けた。寝室に招き入れる女の子は鬼頭で三人ほど。

 

 

一人は昔一時同棲していた女の子、一人は……エマさん。最後の一人が鬼頭だ。

 

 

寝室の灯りをつけることはしなかった。散らかっている部屋をあまり鬼頭に見せたくない。

 

 

セミダブルのベッドが一つ。クローゼットとベッドのサイドテーブルだけの簡素な部屋だったが、ベッドの布団は起き抜けのままになっていたし、床には車の雑誌が三冊ほど散らばっていた。

 

 

 

僕は布団を整え、床に散らばった雑誌を拾い上げた。

 

 

「散らかってるってどこが?きれいじゃん」

 

 

鬼頭は軽く笑った。

 

 

僕も無言で笑い返した。

 

 

「男の人の部屋ってもっと散らかってるもんでしょ?先生の部屋は綺麗だよ」

 

 

そう言ってベッドの端に腰を下ろす。

 

 

鬼頭がいる寝室は、ひどく違和感があった。絶対に呼ぶことがないと思っていたから。それと同時に軽いデジャヴュを感じる。

 

 

鬼頭に似たエマさんも……同じようにベッドに座っていたから。

 

 

鬼頭はそのことを知らない。

 

 

 

僕はその考えを振り払うように頭を振った。

 

 

そのせいで頭がくらりときた。アルコールが回ったようだ。

 

 

 

 

ぐらりと体が傾いて、僕は足を滑らせた。

 

 

 

 

 

 

 

P.220


 

 

「あぶなっ」

 

 

鬼頭の声が聞こえて、ドサリと僕はベッドに倒れこんだ。

 

 

タンドゥルプアゾンを間近に感じる。

 

 

「った~、ちょっと先生!大丈夫?酔ってるの?」

 

 

すぐ近くに鬼頭の顔があって驚いた。

 

 

鬼頭の体は僕の下敷きになっているようだ。怪我をしていない方の腕で肩や腕を庇っている。

 

 

 

「ごめっ……!」

 

 

 

すぐに体を退けようとしたけれど、アルコールの回った体が言うことを聞かない。

 

 

「別に……いいよ」いつものそっけない口調で答えが返ってくる。

 

 

そっけないが別段気を悪くしたようでもなさそうだ。

 

 

それどころか鬼頭の腕が僕の背中に回ってきた。柔らかい感触と確かなぬくもりを背中に感じる。

 

 

「鬼頭!?」

 

 

驚きに声が引っくり返った。

 

 

「ホントだ。細マッチョ。引き締まった体してるね」

 

 

鬼頭は控えめだけどしっかりした手付きで僕を抱きしめた。

 

 

鬼頭の体温を感じる。

 

 

タンドゥルプアゾンをより間近で感じる。

 

 

この香りが、僕を捉えて離さないように、彼女の腕がしっかりと絡みついている。

 

 

 

 

 

ドクン、ドクンを僕の心臓が派手に音を立てる。

 

 

 

 

 

「先生……あたしが怪我したのは先生のせいじゃないよ。

 

 

だから自分を責めないで」

 

 

 

 

 

 

P.221


 

 

「……!」

 

 

僕は言葉を呑んだ。

 

 

鬼頭は僕の背中を優しく撫でさすった。

 

 

ひんやりとした指先が僕の背中を上下する。とても落ち着く感触で、安心した。

 

 

安心して……気が緩んだ。

 

 

 

 

 

「先生……?震えてる?」

 

 

「鬼頭……ごめん、ごめんな……」

 

 

鬼頭の言った通り僕は震えている。

 

 

ちゃんと話してるつもりなのに、声が切れ切れになる。

 

 

僕は鬼頭に見られないよう顔を背けて、初めて彼女の前で涙を流した。

 

 

涙を流すなんて、なんて久しぶりだろう。

 

 

 

 

楠が自殺未遂をしたとき以来だ。

 

 

僕は涙を流さない。まこの前でさえも。なのに、何で今日はこんなに素直に自分の感情を吐き出してしまうのだろう。

 

 

教え子を相手に。

 

 

彼女の手があまりにも優しくて、安らぎを覚えたから……

 

 

 

 

「……怖かった。鬼頭が……楠と重なって。僕はまた何もできなかった」

 

 

僕は鬼頭から顔を背けているので彼女の表情が分からない。

 

 

けれど、すっきりとした無表情でいるに違いない。そう思ったんだ。

 

 

それぐらい、彼女の次の言葉がつるりとしていて感情を読み取ることができなかったのだ。

 

 

 

 

 

「うん」

 

 

 

鬼頭はたった一言、そう呟いただけだった。

 

 

 

 

 

P.222


 

 

 

―――

 

一緒にベッドを使おうと、鬼頭は言ってきたがそれは頑なに受け入れなかった。

 

 

「それはできない」

 

 

「何で、教え子だから?」

 

 

頭の良い子だと思うが、時々常識はずれなことを聞いてくる。

 

 

それが天然なのか計算なのか僕には全く分からなかったけど。

 

 

僕はソファで眠ると伝えると、鬼頭は僕の心配をしてくれた。

 

 

「あんな狭いところで寝たら、体痛くなるよ」

 

 

 

 

前言撤回。天然でも計算でもない。

 

 

鬼頭は―――優しい子だ。

 

 

 

 

 

それでも、僕は鬼頭の申し出を断り、鬼頭もそれ以上は何も言ってこなかった。

 

 

大人しくベッドに入ると、布団をかぶった。それを見届けると僕は寝室の扉をきっちり閉めた。

 

 

 

 

何時間経っただろう。あれから食べた後の片付けをしてシャワーを浴び終え、本日二回目の晩酌をしている最中だった。

 

 

真夜中のことだった。

 

 

僕がゆずとソファでうたた寝をしていると、鬼頭の苦しげな呻くような声が聞こえてきた。

 

 

最初に異変に気づいたのは、ゆずだった。

 

 

寝室の前でキャンキャン吠えると、くるくると回っている。

 

 

 

僕はゆずを抱き上げると、一瞬躊躇したものの容態が心配になったからそっと寝室の扉を開けた。

 

 

怪我をした方の腕を上側に、鬼頭は横向きで眠っていた。布団から腕を出して枕を抱えている。

 

 

 

「……っつ……ん」

 

 

目はぎゅっと閉じられ、苦しそうな声を出して眉を寄せていた。

 

 

 

 

「鬼頭!大丈夫か?」

 

 

 

僕は彼女の体を軽くゆすった。

 

 

 

 

 

 

P.223


 

 

「夜中に痛み止めが切れると思う。切れたら、薬を飲ませろ」

 

 

まこがそう言って、痛み止めの内服薬を置いていった。

 

 

「鬼頭、痛むのか?薬……薬飲もう」

 

 

僕は慌ててキッチンに向かうと、まこから預かった薬の紙袋とミネラルウォーターのペットボトルを手に取り慌てて寝室に戻った。

 

 

 

鬼頭は寝ているのか起きているのか分からなかったけれど、布団にくるまり肩を押さえてる。

 

 

「鬼頭、薬だ。飲みなさい」

 

 

僕は錠剤をパッケージから取り出すと、手のひらに乗せて鬼頭の顔の辺りに持っていった。

 

 

「うー」と小さくうなり声をあげて、鬼頭は布団を引き上げる。

 

 

僕の声が聞こえてるのかどうか分からなかった。

 

 

僕は布団を下げると、もう一度「薬」と短く鬼頭の耳元ではっきりと言った。

 

 

鬼頭は苦しみながらも、首を振る。

 

 

 

「や。薬……嫌い」

 

 

 

僕は唖然とした。

 

 

「嫌いったって、飲まなきゃ痛いままだよ」

 

 

「痛いままでいい……薬……ホントに嫌いなの」

 

 

 

今まで普通より大人びた子だとばかり思っていたけれど、まるで駄々っ子の子供のようだ。

 

 

初めて見せる一面に、彼女の中に可愛らしさを見た。

 

 

 

でもこのまま苦しみ続けるのは可哀想だ。

 

 

 

僕はペットボトルの水を口に含むと、錠剤を口に投げ込んだ。

 

 

 

 

P.224


 

 

僕は鬼頭の体をそっと上向きにさせると、彼女の顔に近づいた。

 

 

苦しいのか、部屋は冷え切って寒いはずなのに汗の粒が額に浮かんでいた。

 

 

かわいそうに。

 

 

額の汗を手でそっと拭うと、僕は鬼頭の形の良い口を開かせた。

 

 

 

 

 

そのまま、薬を含んだ僕の口を近づけ、彼女に口移しした。

 

 

 

 

「ん……!」

 

 

短く声をあげ鬼頭の喉が薬を飲み込む。

 

 

 

それを確認して、僕は彼女の唇を指でそっと拭った。

 

 

「もう大丈夫だ。あと30分もしたら、薬が効きだしてくるはず」

 

 

僕は布団を鬼頭にかぶせると、ちょっと眉を寄せて彼女を見下ろした。

 

 

まだ苦しそうに顔を歪めてるが、もう手の施しようがない。

 

 

それに僕が近くにいたらぐっすり眠れないかもしれない。僕はそっと体を後退させた。

 

 

 

 

「待って……」

 

 

部屋を出ようとする僕を鬼頭が呼び止めた。

 

 

消え入りそうな小さな声だった。

 

 

僕が足を止める。

 

 

 

 

 

 

「……傍に……いて」

 

 

 

 

 

 

P.225


 

 

僕はそっとベッドに近づいた。

 

 

鬼頭は不定期な呼吸で喘ぎながら僕を何とか見上げてる。

 

 

「傍にいて」もう一度、今度ははっきりと聞こえる声だった。

 

 

どうしようかちょっとの間悩んだが、結局僕はベッドの端に腰を降ろした。

 

 

ベッドに手をつくと、その手に鬼頭の細い手が重なった。

 

 

汗を掻くぐらい暑い筈なのに、その手はひんやりと冷え切っていた。

 

 

僕はその細い指先を包むように握り返す。

 

 

 

 

「先生の手……あったかい」鬼頭は口の端で小さく微笑んだ。

 

 

「……うん。鬼頭の手は冷たいね」

 

 

鬼頭はふふっと小さく笑みを漏らすと、

 

 

「先生の手……安心する」

 

 

と小さく囁いた。

 

 

 

 

 

僕もだよ。僕も何故か君の手を握ってると安心するんだ。

 

 

そこには確かに命の息吹を感じられるから。

 

 

生きてるって確かな証を感じられるから。

 

 

 

 

 

鬼頭が寝返りを打とうとして小さくうめいた。

 

 

「痛いのか?」

 

 

僕は鬼頭の背中に手を回し、撫でさすった。

 

 

驚くほど華奢で頼りなげな小さな背中。

 

 

だけどスウェットの上からでも分かる程彼女の背中は熱を持っていた。

 

 

 

 

 

「ごめんね。こんなことしかできなくて」

 

 

そう呟いて、僕は彼女の背中を撫でた。

 

 

 

 

 

P.226


 

 

三十分ほど経ってようやく鬼頭は落ち着いた。

 

 

安定した寝息が聞こえると、僕はほっと安堵して彼女の寝顔を見つめた。

 

 

 

 

初めて見る鬼頭の寝顔。

 

 

綺麗な寝顔だった。とても……

 

 

長い睫がすべすべした白い頬に影を落としている。

 

 

かさつきのない淡いピンク色をした唇がわずかに開いていて中から白い歯が覗いてた。

 

 

そこから浅く、深く吐息を漏らしている。

 

 

本当に綺麗な寝顔を僕は何となく見つめていると、

 

 

 

 

 

鬼頭は握った手を一瞬強く握り返した。

 

 

「せん…せ……」と短く呟く。

 

 

 

 

ドキリ…とした。一瞬起きてるのかと思ったが、鬼頭の目は開くことがなかった。

 

 

なんだ、寝言か……

 

 

 

どんな夢を見ているのだろう。

 

 

夢で僕を探しているのだろうか。

 

 

それだったらちょっと嬉しいな。

 

 

 

自然に顔がほころぶ。

 

 

彼女の夢の中にまで登場できたことを嬉しく思う。

 

 

 

 

と、同時に何故そう思うのか自分が分からなかった。

 

 

 

唐突に―――

 

 

 

 

そう、本当に唐突に僕は鬼頭の顔に自分の顔を近づけた。

 

 

 

 

 

自分が何をしているのか、頭ではちゃんと分かっていた。

 

 

でも気持ちは……

 

 

 

 

 

大切な生徒だぞ!

 

 

と警告している。

 

 

 

 

でも、止められなかった。

 

 

 

 

鬼頭の髪や首元からタンドゥルプアゾンが香る。

 

 

 

僕はその香りに包まれながら、彼女の唇にそっと自分の唇を重ね合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.227<→次へ>


コメント: 0