TENDRE POISON 

~優しい毒~

『陰謀、企み、そして恋心』

◆午前2時の寝言


 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

神代の車で奴の家に向かう。もちろん車に乗る際に誰かに見られてないか細心の注意を払った。

 

 

今、誰かに不用意に噂されるのは良くない。

 

 

あたしはガラにもなく緊張していた。

 

 

今日家を出るとき、

 

 

「気をつけろよ!犬なんてのはただの口実で、お前を家に呼び込むだけの嘘かもしれないんだから」と耳が痛いほど明良兄から忠告を受けてきた。

 

 

だからかもしれない。

 

 

でも、そこまでして嘘なんてつくかな?

 

 

形とは言え、あたしは一度フられてるわけだし。

 

 

 

 

 

 

神代の家はあたしんちからそんなに離れていないマンションだった。

 

 

十四階建てのきれいなマンション。エントランスホールは自動ドアで、入り口に部屋番号をプッシュするキーパネルが置かれていた。

 

 

神代は“401”を手馴れた手付きで押して、キーを差し込んだ。

 

 

自動扉が開く。

 

 

さっきちらりと見えた。向かい側に同じようなマンションがあり、でもそっちはキー操作なしでも入れる開放的な玄関口だった。

 

 

あたしは神代に見えないところで、明良兄にこの場所をメールをした。

 

 

向かいのマンションからなら撮影可能だろう。

 

 

間もなく明良兄が来るだろう。その後はすぐに帰るよう伝えてある。

 

 

万が一でも、神代に姿を見られることがあったらまずいからだ。

 

 

 

「きれいなマンション」

 

 

「でも、そんなに高くないよ」神代は笑った。

 

 

その笑顔はあたしを安心させる、穏やかなものだった。

 

 

 

 

 

でも油断は禁物!

 

 

 

 

神代の部屋は401号室だ。

 

 

神代が扉を開けて中に促してくれた。

 

 

「おじゃまします」

 

 

控えめに言うと、あたしは部屋に上がった。

 

 

スリッパが用意されていた。

 

 

あたしが履くと、ぶかぶかだった。

 

 

入ってすぐ右側にキッチンがあり、その向かい側はどうやらバスルームとトイレになっているようだ。

 

 

 

 

 

奥の扉を開ける前に、犬の鳴き声がした。

 

 

 

 

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「ゆず、ただいま~」

 

 

“ゆず”って言うんだ。可愛い名前。

 

 

扉を開けると、小さなふわふわした生き物がまるで『待ってました』とばかりに神代に飛びついた。

 

 

神代が手馴れた手つきで犬を抱き上げて、あたしに見せる。

 

 

「僕の飼い犬。ゆずって言うんだ」

 

 

“ゆず”と呼ばれた犬は茶色いふわふわの長い毛と、大きな黒い目が特徴的なチワワだった。

 

 

 

 

 

「可愛い!」

 

 

 

 

素直な感想だった。

 

 

今の今まで、あたしの方こそ犬なんて口実だったのに、神代の犬はすっごく可愛い。

 

 

これがドーベルマンとかだったら、違った意味で納得もできたけれど。

 

 

 

 

「あたしも抱っこしてい?」

 

 

聞くと、神代は「いいよ」と笑顔で返してくれた。

 

 

 

「ほら、ゆず。雅お姉さんだよ~」

 

 

そう言って犬をあたしに犬を渡す。

 

 

 

 

 

 

雅って……

 

 

 

 

 

初めて名前呼んでくれた。

 

 

 

 

 

犬に対してだけど、あたしの心臓はドキドキとリズムを刻んだ。

 

 

 

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バカね。こんなことで胸を高鳴らせたりして。

 

 

らしくない。

 

 

犬を受け取ると、あたしは危うい手付きで何とか抱っこした。

 

 

小さいのに、意外と重さがある。

 

 

でも……

 

 

 

ふわふわで、あったかい。

 

 

「かわいぃ……」

 

 

 

ゆずはあたしの腕の中にいても、吠えたり暴れたりしなかった。

 

 

ついでに言うと震えたりもしていない。

 

 

心地良さそうに胸元に擦り寄ってくる。

 

 

 

「珍しいな。人見知りする子なんだけど、鬼頭が気に入ったみたいだね」

 

 

そう言ってゆずの頭を手馴れた仕草で撫でる。

 

 

ゆずは気持ち良さそうに目を細めた。

 

 

 

 

「こんなところで立ち話もなんだから、コーヒーでも飲まない?淹れるよ」

 

 

「ありがと」

 

 

あたしはゆずを抱っこしたまま、リビングに通される。

 

 

リビングは綺麗に片付いていた。

 

 

ソファと大きなテレビとサイドボードがある。

 

 

 

 

 

「適当にくつろいでて」

 

 

 

そう言って神代はキッチンに向かっていった。

 

 

あたしはゆずを床に置くと、素早く部屋を見渡した。ゆずがまだ抱っこをおねだりするかのようにあたしの足元をうろうろしている。

 

 

それに「ごめんね、もうちょっと待っててね」と小声で言い、あたしは部屋の散策に集中。

 

 

 

ゆずの可愛さに思わず本来の目的を忘れるところだった。

 

 

 

 

あぶない、あぶない。

 

 

 

 

 

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ざっと見たところ、何もめぼしいものはなかった。

 

 

寝室は……

 

 

きっと奥の扉だ。

 

 

神代が見てないことを見計らって、あたしはその扉に手をかけた。

 

 

『あたしも入る~』と言いたげに、ゆずが部屋の入り口をうろうろ。

 

 

 

 

「そこは寝室だからだーめ」

 

 

ふいに近くで声がして、あたしは飛び上がるほどびっくりした。

 

 

神代の気配をすぐ近くに感じる。

 

 

なんだろ、柔軟剤かな。石鹸のいい香りがする。

 

 

体温まで伝わってきそうなほど至近距離……

 

 

 

 

 

 

「まったく……油断も隙もない」

 

 

苦笑しながら、神代が言った。

 

 

「……ごめん」

 

 

「いや、ごめん。僕の方こそ説明してなかったね」

 

 

 

 

「……先生」

 

 

あたしはくるりと体を反転させると、神代に向き直った。

 

 

すぐ近くに神代の顔がある。

 

 

神代はミネラルウォーターのペットボトルを手にしていた。

 

 

 

 

 

 

「あたし、先生のこと好きだよ」

 

 

 

 

 

 

 

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何でこんなこと言ったんだろ……

 

 

寝室に入ろうとしていたことをごまかす為に?

 

 

それもあるけど、でも自然に出た言葉。

 

 

 

 

 

これは嘘なのか。

 

 

 

それとも真実なのか―――

 

 

 

 

わからなかった。

 

 

 

 

 

「鬼頭……」

 

 

と神代が言いかけたところで、口の開いていたペットボトルが神代の手から離れた。

 

 

バシャッ!

 

 

 

 

 

「「わ!」」

 

 

二人の声がきれいに重なった。

 

 

そしてあたしの制服のブラウスが水に濡れた。

 

 

冷たっ!!

 

 

あたしと神代の足元でゆずがきゃんきゃん吠えながらくるくる回ってる。

 

 

ごめんね。

 

 

びっくりしたよね。

 

 

びっくり……

 

 

したのはあたしの方だ。

 

 

 

 

「ご、ごめん!」神代が慌てる。

 

 

「着替え貸すから、着替えて?」

 

 

そう言って神代は慌てて寝室に入っていった。

 

 

 

あたしとゆずは取り残されたようにぽつんと佇んでいるしかない。

 

 

 

 

 

 

神代は何を言おうとしてたのかな?

 

 

 

 

 

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「これ、大きいかもしれないけど使って?」

 

 

そう言って神代はあたしに白いTシャツを渡してくれた。洗い立てなのだろう、爽やかな柔軟剤……さっき神代に近づかれたときと同じ香りが香ってきた。

 

 

「ありがとう。じゃぁ着替えてくる」

 

 

「うん。じゃあ僕廊下に出てるよ」神代はくるりと背を向けた。

 

 

「いいよ。あたしが廊下に出るから。先生はコーヒーの用意しておいて」

 

 

「そ、そうか」

 

 

 

 

ホントは色々探りたかった。けど、今度下手な動きを見られると言い訳が立たない。

 

 

ここは大人しくあたしが廊下に出れば済むこと。

 

 

 

 

 

あたしは廊下に出た。

 

 

廊下はひんやりと冷え切っていた。

 

 

 

 

でもあたしの体は熱を持ったように熱い。

 

 

 

なんで―――?

 

 

 

 

 

 

 

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あたしはたっぷり時間をかけて着替えをした。

 

 

何より自分が冷静にならなくてはいけないと思ったから。

 

 

神代に貸してもらったTシャツは彼と同じ柔軟剤の香りがした。

 

 

 

 

あたしが着るとやっぱりぶかぶかで、ワンピースみたいになる。

 

 

何だか神代に包まれてるようで、変な気分だ。

 

 

 

 

リビングの扉を開けると、神代の姿はなかった。

 

 

 

あれ?

 

 

 

と思ったら、ソファに足を投げ出して横たわっている。

 

 

 

「先生?」

 

 

そっと呼びかけたが、返事は返ってこない。

 

 

神代のおなかの辺りでゆずがうずくまって眠りに入ってる。

 

 

 

 

神代も―――

 

 

目を閉じていた。

 

 

 

 

 

うそ……寝てる……?

 

 

 

あたしは神代の顔にそっと耳を近づけた。

 

 

神代の口から定期的な寝息が聞こえる。

 

 

 

寝顔は子供のようにあどけないものだった。

 

 

 

長い睫が頬に影を作ってる。

 

 

 

 

 

「きれいな寝顔……」

 

 

 

あたしはそっと神代の頬に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

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何でそうしたのか、またも分からなかった。

 

 

今日のあたしは、変だ。

 

 

さっきから思ってることとは別なことをしてる。

 

 

 

 

神代の頬はほんのりあったかい。

 

 

「ん……」

 

 

神代が身じろぎして。まぶたを震わせた。

 

 

慌てて手を引っ込めようとしたけど、その手に神代の手がそっと重なった。

 

 

 

 

 

え―――?

 

 

 

 

でも、神代は起き出して来る気配を見せない。

 

 

寝ぼけてるの??

 

 

ってか、客人をほったらかして何寝てるのよ。

 

 

と思う反面、この寝顔をずっと見ていたいと思うあたし。

 

 

 

 

 

今日のあたしは……間違いなく変だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「水月……」

 

 

 

 

あたしは初めて彼の寝顔に向かって名前を呼んだ。

 

 

 

 

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「ん……」

 

 

神代が幸せそうな寝顔で、わずかに身じろぎした。

 

 

そう思ったら、ふいにあたしの手に触れていた手に力が入って、あたしは引き寄せられた。

 

 

思った以上に力強い手だった。

 

 

 

「わっ」

 

 

 

あっという間だった。

 

 

心臓が強く波打つ。

 

 

 

神代のおなかの上で眠っていたゆずが驚いたように飛びのき、床にジャンプして不思議そうにあたしを見上げている。

 

 

 

神代の上に乗っかる形になったあたし。

 

 

神代の鼓動が聞こえる。

 

 

二人の鼓動が重なって、不思議なリズムを刻んでいた。

 

 

女の子のそれとは違って筋肉質の胸板。華奢だと思ってたけど、思いのほかきれいな筋肉がついた肩。

 

 

心臓が不規則に波打つのをごまかして、

 

 

 

「なんだよ―――起きてたの……」

 

 

と言いかかけたところに、

 

 

 

 

 

 

 

「まこ」

 

 

 

 

 

と神代の声がかぶさった。

 

 

神代は変わらず寝息を立てている。

 

 

何だ、寝言か……

 

 

 

 

 

 

まこ……

 

 

 

 

 

誰それ?

 

 

 

 

 

 

 

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神代はすごく幸せそうな笑顔をして眠っている。

 

 

 

急にむかっ腹が立った。

 

 

「ちょっと!起きてよ!」

 

 

あたしは神代の胸を叩いた。

 

 

ゆずが足元でワンワン吠える。

 

 

どうやらあたしたちが喧嘩をしているのかと思っているようだ。

 

 

 

 

神代の目がぱちっと開いた。

 

 

 

「……あれ?鬼頭……」

 

 

それと当時に手の束縛も解かれる。

 

 

 

 

「さいてー」

 

 

 

あたしは冷たく一言言うと、神代の上から退いた。

 

 

 

 

 

ほんと……

 

 

 

最低だよ。

 

 

 

 

あたしを抱きしめながら他の女の名前を呟くなんて。

 

 

「あたし、帰る」

 

 

あたしは鞄とブレザーを引っつかみ、ソファを立ち上がった。

 

 

まだまだ探りたいこといっぱいあったけど、正直それどころじゃない。

 

 

今は憎しみよりも苛立ちの方が膨れ上がっていた。

 

 

 

 

「ちょっ!鬼頭!僕、何かした?」

 

 

神代がびっくりしたように目を丸めてる。

 

 

 

 

 

「あたしは“まこ”って女じゃない」

 

 

そう言い捨てると神代は顔色を真っ青にした。

 

 

 

 

 

なんだかとても……

 

 

 

惨めな気持ちだった。

 

 

 

 

 

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「バカ!神代のバカ!」

 

 

あたしは歩きながら、さっきからずっと同じことを呟いてる。

 

 

道行く人々が、怪訝な顔して振り返ったけど、気にならなかった。

 

 

 

 

 

それほどまでに……

 

 

 

ムカついてた。

 

 

ムカついて、涙が出てくるぐらいだ。

 

 

 

 

涙……

 

 

あたし……なんで泣いてんだろ。

 

 

 

 

 

「ねえ、ねえねえ君~」

 

 

ふいに声を掛けられ、あたしは涙を拭い顔をあげた。

 

 

見知らぬ男二人が目の前にいた。

 

 

大学生ぐらいだろうか、二人ともいかにも、というチャラそうな男だ。

 

 

あたしは無視してすたすた歩き出した。

 

 

 

 

「あ、ちょっと待ってよ!君すっげーかわいいじゃん。ねえ、茶でもしない?」

 

 

一人の男が回り道してあたしの行く手を塞いだ。

 

 

もう一人はあたしの後ろ側にいる。

 

 

なんだ、ナンパか。

 

 

 

 

 

「悪いけど、急いでるの」

 

 

あたしはナンパ男を睨み上げた。

 

 

 

 

 

 

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「わぁお。怒った顔も可愛い♪」

 

 

男は大げさに言うと、

 

 

「そんなこと言わずにさ、あっちに車あるんだ。何ならドライブでもいいよ」と言い、あたしの腕を掴んだ。

 

 

背後の男もあたしの肩に手を置く。

 

 

「そうそう、ホテルまでの直行便ってね」

 

 

 

 

なに言ってんだこいつら。

 

 

 

「離してよ!マジで急いでるんだって」

 

 

あたしは男の手を振り払おうと、腕をもがかせた。

 

 

だけど男の手はびくりともしない。

 

 

引きずられるように、男たちの車へと連れて行かれそうになる。

 

 

ここはメイン通りより一本北に入った、薄暗い道だ。

 

 

今は人も通ってない。

 

 

やだ!誰か……

 

 

 

 

先生!

 

 

 

「せ……」と言いかけたところで、

 

 

 

 

 

「おい、てめぇら。そいつは俺の女だ。そいつをどうするつもりだ」

 

 

 

 

男の人の声が聞こえた。

 

 

 

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「……先生……」

 

 

には変わりなかった……

 

 

けど―――

 

 

 

「お前らどこの学校のもんだ?大学生だろう」

 

 

保健医はポケットに手を突っ込んで、首を傾けてる。

 

 

白衣を着てなかったから一瞬誰だかわからなかったけど、間違いなく保健医だ。

 

 

 

 

 

「何だよおっさん!やろうってんのか?え?」

 

 

あたしを車に乗せようとしていた男が保健医に殴りかかった。

 

 

「あぶなっ!」

 

 

あたしは思わず目をつぶりそうになった。

 

 

だけど保健医は男の拳をあっさりよけると、長い足で男のみぞおちを蹴り上げた。こいつ……医師だよね?何か喧嘩慣れしてそうだけど…

 

 

男が何かうめき声をあげてその場にうずくまる。

 

 

 

保健医は手の関節をぼきぼき鳴らすと、

 

 

「次はお前か?」と言い、にやりと笑った。

 

 

 

 

 

あたしの腕を掴んでいた男があたしの腕を離すと、「ち、ちくしょう」と言って、もう一人の男を助け起こしに走っていった。

 

 

捨て台詞もいかにも間抜けだったけど、この際それに関しては何も突っ込まずにおこう。

 

 

男たちは自分たちの車に乗り込むとあっさりと走り去った。

 

 

 

 

あたしはびっくりして言葉も出ない。

 

 

保健医があたしにゆっくり近づく。

 

 

あたしは思わず一歩後退した。

 

 

 

 

 

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「大丈夫か?」

 

 

思いのほか優しい声。

 

 

あたしはこくりと頷いた。

 

 

「…どうして、助けてくれたんですか?」

 

 

「目の前に同じ高校の生徒が絡まれてんのに、放っておいたから後味がわりーからな」

 

 

 

あ、そ。

 

 

こういうやつだよ、こいつは……

 

 

 

 

保健医はおもむろに着ていた革ジャンを脱いだ。

 

 

あたしが身を縮こませると、

 

 

「ほらよ。そんな格好だと風邪ひくぞ」

 

 

と言って、ふわりと革ジャンをあたしの肩にかけてくれた。そこからふわりとこいつが愛用しているであろう香水の爽やかな香りが香ってきた。

 

 

 

 

再びびっくり……

 

 

意外と優しいのかも。こいつ。

 

 

 

「あのぅ……先生はなんでこんなところに?」

 

 

あたしはおずおずと聞いた。

 

 

「俺は水月んちに行く予定だったんだ。そしたらお前がいたから。お前こそ何やってんだよ」

 

 

「あたしは……」

 

 

 

言いかけて、神代の家に行った事は黙っておこうと決め、口を噤んだ。

 

 

革ジャンの前を合わせて神代に借りたTシャツを隠した。

 

 

 

「あたしは、家がこの近くだから散歩してたの」

 

 

 

 

「ふぅん。じゃあ送ってってやるよ」

 

 

 

 

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「いえ、大丈夫です」

 

 

あたしはかぶりを振った。あたしを助けてはくれたけど、その先にどんな危険が待っているか分からない。

 

 

何せこいつはあたしに分かりやすく脅しをかけてきたヤツだから。

 

 

「ばぁか、あの連中がまだこの辺うろうろしてるかもしれないんだぞ」

 

 

そう言ってあたしの額をでこピンで弾く。

 

 

「それは……困る……」

 

 

「だろ?だったら大人しく送られておけ」

 

 

今は、そうするしかなさそうだ。保健医は少なくとも警告以上のことはしてこないだろう。

 

 

「じゃあ、お願いします」

 

 

あたしは保健医に送られることになった。

 

 

成り行きとは言え、不覚……

 

 

 

 

 

でもこの保健医が現れなかったら……

 

 

あたしは身震いした。

 

 

 

 

保健医は車で来たわけじゃなかったみたい。

 

 

なんとなく二人肩を並べて歩く。

 

 

日が暮れた空はすっかり暗く、所々に街灯がぽつんぽつんとあるだけだ。

 

 

別にこいつと話す事もない。向こうも同じだったのか、気詰まりな沈黙が流れてた。

 

 

 

早く家に着かないかな?

 

 

 

 

家に着くって行ってもすぐ近くまでだけど。

 

 

だってあたしの家は楠家の隣だから。

 

 

こいつから、神代に洩れたら大変。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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家が近づいてきて、あたしは指さした。

 

 

「あたしんちあそこなんで、もういいです。送ってくれてありがとうございました」

 

 

あたしはぺこりと頭を下げた。もちろん指差した先はあたしの家じゃない違う家。

 

 

「そっか?じゃ」

 

 

保健医もあっさりと踵を返す。

 

 

あたしはほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 

あたしの本当の家の門灯に灯りが灯ってる。

 

 

あれ?あたし消してきたはず……

 

 

門を開けると、

 

 

「雅!」

 

 

中から明良兄が顔を出した。

 

 

明良兄はすごく心配そうに眉を寄せている。

 

 

「大丈夫だったか?神代になにもされてない?」

 

 

あたしは首を横に振った。

 

 

明良兄はふっと表情を緩めると、「おかえり」と言ってあたしを中に促した。

 

 

 

 

 

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「どうしたんだよ。その革ジャンとTシャツ。まさかあいつんんちで何かあったんじゃ……」

 

 

明良兄が顔を強張らせて聞いた。

 

 

あたしは神代に水をこぼされたことと、ナンパ男共から保健医が助けてくれたことをかいつまんで話した。

 

 

何もなかったことを知ると、明良兄は目に見えてほっとした。

 

 

「俺があの場をすぐに離れてないければ」と後悔の念を口にする。

 

 

「離れてって言ったのはあたしだよ?明良兄が居たら余計ややこしくなってたかも」

 

 

あたしの意見に納得したのか明兄は早々に諦めた感じでため息を吐き、

 

 

 

 

 

「で、何か掴めたか?」

 

 

ソファに座るなり、口を開いた。

 

 

「ううん……」

 

 

あたしは小さく首を振った。

 

 

 

「そっか……こっちはばっちり写真撮れたぜ。まぁちっとぼやけてはいるけどな」と言ってデジカメの画像を見せてくれた。

 

 

確かにぼやけてはいるけどあたしと神代があいつのマンションに入る場面だと言うことはハッキリと分かる。

 

 

これは切り札だ。

 

 

今後の計画の為、或いはあたしに何かあったときの最後のカードになるか。それは今後の展開次第だ。あたしは明良兄のデジカメからSDカードを抜き取った。

 

 

明良兄は必死に慰めの言葉を探してるようだった。

 

 

「明良兄、ありがとね」

 

 

あたしもちょっと笑ってそれに答える。

 

 

 

明良兄の隣に腰を下ろすと、明良兄があたしの顔を覗き込んできた。

 

 

「何?」

 

 

明良兄はあたしの頬を親指でそっとなぞった。

 

 

「涙のあとがある……、雅、何かあったのか?」

 

 

あたしは顔を逸らした。

 

 

「何も…ただ、あいつの好きな奴の名前は分かったよ」

 

 

「名前……?」

 

 

 

 

 

 

「うん。“まこ”っていう女。明日教師名簿で調べてみるよ。ま、居ない確立が80%だけどね、あたしの記憶では」

 

 

 

言ってまた悲しくなった。

 

 

涙が出そうになるのを必死にこらえて、飲み込んだ。

 

 

 

明良兄があたしを自分の方に向かせた。

 

 

 

「お前……それで泣いてたのか?」

 

 

 

 

 

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ドキ……

 

 

 

 

「違うよ」

 

 

何とか答えた。好きな女を知ったからじゃない。好きな女に間違われたからだ……

 

 

 

 

 

神代、優しい声だった……

 

 

あの優しくてあったかい手のひらで包まれた。そこには間違いなく愛情がみなぎっていた。

 

 

そう考えたらまた涙が……

 

 

 

 

零れ落ちそうになる涙を拭おうとしたら、明良兄はその手をやんわりと止めた。

 

 

そしておもむろに自分の方へ引き寄せる。

 

 

引き寄せられて、抱きしめられた。

 

 

 

 

神代よりがっちりした腕。

 

 

 

明良兄はあたしを抱きしめたまま、

 

 

 

 

 

 

「お前、この件からもう手を引け。

 

 

あとは俺が何とかする」

 

 

と低い声で言った。

 

 

 

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