TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後0時の企み


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

計画はうまくいっていた。

 

 

ただ一つあたしが怪我をするというアクシデントを除いては。

 

 

そう。完全にアクシデントだったんだ。

 

 

こんなの計算外だ。

 

 

でも結果的に神代のマンションに潜り込むことができたから、それはそれで良かったのか。

 

 

傷の痛みと引き換えに、神様はあたしに運を与えてくれた。

 

 

 

 

あたしが荷物を持って神代の車に戻ると、相変わらず示し合わせたかのように押し黙った二人が前の席でしかめ面をしていた。

 

 

何...?喧嘩でもした...?

 

 

あたしはその理由を問いただすことができずに、まぁ問いただしたところであたしには関係ないことだし押し黙ったまま、三人で神代のマンションまで移動した。

 

 

その重い空気の中、保健医も交えて三人でピザを食べることに。

 

 

保健医がいるとやりにくいけど、急ぐことはない。時間はたっぷりある。

 

 

ゆずもいたおかげかな。場は何となく和んでたけど、神代は食欲がないみたい。ピザを取る手が進むことはなかった。

 

 

 

 

 

食べ終えて、あたしは学校の鞄の中を覗いた。

 

 

ケータイの着信を報せるランプが点滅している。ケータイを開くと、

 

 

 

不在着信:梶田 優輝

 

 

 

と表示されていた。

 

 

着信履歴を見ると4件ほど梶の名前が連なってる。

 

 

 

 

梶……そう言えばあの現場にいたっけ…

 

 

記憶が曖昧だけど、遠くで梶の声を聞いたのはどうやら間違いじゃないみたい。

 

 

 

心配してくれたんだ。

 

 

 

 

二人はお酒が入ってるせいかな、幾分かさっきより饒舌になってタバコを吹かしながら談笑していた。

 

 

どうやらさっきの沈黙は喧嘩じゃなかったみたい。

 

 

あたしはトイレに行くふりしてその場からそっと離れると、廊下に出た。

 

 

急いで梶に電話をする。

 

 

 

 

 

 

 

P.228


 

 

『もしもし!』

 

 

急き込んだ様子の梶がすぐに電話口に出た。

 

 

『鬼頭!?お前っ大丈夫か??』

 

 

切羽詰まって緊張を帯びた声。僅かに語尾が震えてる。

 

 

「うん…大丈夫。心配かけてごめんね」

 

 

『それなら良かったぁ』言葉尻が妙に下がった。気が抜けた、って感じだ。

 

 

『ホントは俺も病院についていきたかったんだけど、授業があるからって先公どもに無理やりつれてかれてよぅ』

 

 

電話の向こうだから分かんないけど、きっと梶は唇を尖らせてる。

 

 

そんなことが容易に想像できた。

 

 

「ホントに心配かけてごめん。多少縫ったけど、傷跡は残らないって」

 

 

『そっかぁ。それなら良かった。で、お前今病院?』

 

 

 

あたしはケータイを一瞬強く握り締めた。

 

 

乾いた唇をちょっと舐めると、

 

 

「今は……家」と短く答えた。

 

 

『家?じゃぁ今からそっち行っていいか?無事な姿を見たい』

 

 

 

 

梶の気持ちは嬉しかった。

 

 

ホントに心配してくれてることが分かったから。

 

 

 

 

 

でもホントのことなんて言えない。

 

 

 

今は神代のマンションにいる―――なんて。

 

 

 

 

 

 

 

P.229


 

 

「ありがと。気持ちだけ受け取っとくよ。今日は疲れたからもう寝たいんだ」

 

 

あたしは適当な嘘をついてごまかした。

 

 

『そっか。そうだよなぁ。今日は色々あったもんなぁ』と梶も納得してる。

 

 

「ごめん」

 

 

 

ホントにごめん。ホントのこと言えなくて……

 

 

梶にはたくさん隠し事してる。隠すって楽じゃないね。

 

 

『や!お前が謝ることじゃねーよ。まぁゆっくり休めゃ』いしし、と明るく笑って

 

 

『じゃ!』と短く返事が返ってきた。

 

 

通話は切れた。

 

 

梶……いいやつ……

 

 

ケータイをパチンと閉じると、

 

 

 

 

 

「なぁに、こそこそしてんだ?」

 

 

と保健医の声が背後で聞こえた。

 

 

びっくり!……した。だって全然気配を感じなかったもん。

 

 

保健医は腕組みをして、壁にもたれ掛かってる。

 

 

「友達と電話。心配してくれてたから」

 

 

別に隠すことじゃないよね。だってやましいことは何一つしてないし。

 

 

 

「ふぅん。お前にもダチとかいたんだな」

 

 

保健医は納得していない様子であたしをじろじろ見ている。あたしにだって友達の一人ぐらいいるっつうの。

 

 

「何を勘ぐってるのか知りませんけど、あたしは何もやましいことなんてしてません。良ければ発信履歴でも見ます?」

 

 

あたしは挑戦的に保健医を睨みつけ、ケータイをずいと前に出した。

 

 

 

「いんゃ。いいよ。めんどくせぇ」

 

 

なんだそりゃ。

 

 

あたしの行動を怪しんでるんじゃないの?

 

 

「俺、帰えるわ。水月に大体のことは説明したけど、何かあったら呼び出してくれ」

 

 

「そう……ですか……」

 

 

 

 

保健医は意味深にふっと笑うと、

 

 

「何?寂しいの?」と銀縁のメガネをちょっと直し、顔を近づけた。

 

 

「まさか」あたしは笑い飛ばしてやった。

 

 

 

 

あたしは保健医のことあまり知らないけど、どう反応すればこいつが食いついてくるのか大体分かった。

 

 

恋を知らないウブな女を演じるのならこいつは落ちない。興味ない振りして、でも好意を持ってる難しいそぶりを見せなきゃ。

 

 

 

 

 

プっと保健医は吹き出した。

 

 

「やっぱおもしれ~。お前」

 

 

 

 

 

ほらね。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.230


 

 

保健医を送り出してあたしはリビングに戻った。

 

 

リビングでは神代がテーブルの上の食器を片していた。

 

 

カチャカチャと言う小気味良い音が響いてる。

 

 

「あ……ごめん。任せちゃって」

 

 

「いいよ。まこは帰った?」

 

 

「うん」

 

 

 

取り皿を重ねながら、

 

 

「あのさ」と神代が口火を切った。

 

 

あたしはソファの前に座り込んで目だけを上げた。

 

 

神代は食器を片付ける手を休めてちらりとあたしを見たけど、すぐに視線を外した。

 

 

「鬼頭とまこって仲が良いよね」

 

 

プっ!

 

 

あたしは吹き出した。文字通り。

 

 

だって面白いほど分かりやすく食いついて来るんだもん。

 

 

 

 

よっぽど好きなんだね。保健医のことが。

 

 

 

「やぁだ、先生。妬いてるの?大丈夫だって、先生からとらないから」

 

 

今はね―――

 

 

 

「や、妬いてなんかないよ!ただ、まこはあんまり人を寄せ付けないから、ちょっと気になっただけ」

 

 

「ふぅん」あたしは立てた膝の上で頬杖をついた。

 

 

 

 

 

「そう言う意味ではまこと、鬼頭は似てるのかな」

 

 

あいつと、あたしが......似てる?やめてよね。

 

 

神代は黙々とテーブルの上を片付けている。その横顔をあたしは見つめた。

 

 

長い睫が瞬いて、神代が瞬きする度に何かの感情が目から流れ落ちているように……見えた。

 

 

 

 

あたしは神代の気持ちが理解できない。

 

 

好きな相手が同性だとか、そういう気持ちじゃない。

 

 

 

 

乃亜姉を死に誘うほど絶望させるもの。

 

 

神代にここまで哀しい顔をさせるもの。

 

 

 

 

それは恋―――

 

 

 

あたしはまだ恋を知らない―――

 

 

 

 

 

 

P.231


 

 

 

あたしが人を寄せ付けないって?

 

 

何で分かったんだろ。

 

 

 

神代は食器を重ね終えると、すっと立ち上がった。

 

 

無言で部屋の外に出て行く。トイレかな?と思ったけど、神代はビールの缶を抱えてすぐ戻ってきた。

 

 

「まだ飲むの?」

 

 

神代はあたしの隣に座った。ビールのプルトップを開けている。

 

 

「今日は飲みたい気分なんだ」

 

 

寂しそうに笑うと、一本タバコを口にくわえた。

 

 

 

 

神代がタバコを吸う姿をじっくり見るのは、これが初めてだ。

 

 

神代は100円ライターでタバコの先に火を灯した。赤い火種が出来て、タバコを口から離す。

 

 

ふぅとため息のような息を吐き出し、煙も一緒に吐き出された。

 

 

 

 

流れるような一連の動作を見て気付いた。彼はタバコを吸っていても様になる。

 

 

 

って、あたし何言ってるんだろう……

 

 

 

 

細い人差し指と中指でタバコを挟み込み、時折口に含む。

 

 

その動作をじっと見ていたら、

 

 

「あ、煙い?」と神代が聞いてきた。

 

 

「ううん。意外だなって思って。先生真面目そうなのに」

 

 

神代は喉の奥でふっと笑った。

 

 

 

 

笑い方があの保健医に、似ていた。

 

 

 

 

P.232


 

 

 

「止めなきゃって思っててもなかなか止められないんだ。禁煙で2回失敗した。鬼頭はだめだよ。タバコなんて吸う大人になっちゃ」

 

 

くすっとあたしは笑みを漏らした。

 

 

「説得力ゼロ」

 

 

「だよね」どこか投げやりな感じで、神代はぐいとビールを飲んだ。

 

 

缶に直接口をつけて豪快に煽るその姿に、今までにない男らしさを感じる。

 

 

 

 

そう、こいつは男なんだ―――

 

 

それでもってあたしは女。

 

 

 

 

それは変えがたい事実で、今男と女が一つの部屋に寄り添って座っている。

 

 

 

だけど神代は保健医を好きで、あたしは神代のことを好きじゃない。

 

 

 

 

だから何も起こらない。これからも……

 

 

 

そういう意味では世界一安全な場所だと言えよう。

 

 

 

 

だけど、ここはあたしにとって安全な場所ではなく、敵地だ。

 

 

 

 

だから気を許してはならない。

 

 

 

そしていつか必ず復讐を遂げるために、あたしはまだ本性を隠し通して、復讐心を眠らせておかねばならない。

 

 

 

 

P.233


 

 

神代が何本目かのビールを開ける頃、あたしはふわふわと欠伸を漏らした。

 

 

梶の言う通り、今日は色々あって……疲れた。

 

 

眠そうにしているあたしを気遣ってか、神代は自分の寝室を勧めてきた。

 

 

前は入ることのなかった寝室。

 

 

特別な女しか出入りすることがない―――寝室。

 

 

 

特別……

 

 

 

ドキリ……とした。

 

 

勘違いしちゃだめ。あたしは神代にとって特別でも何でもない。神代はただ、あたしを心配だから、大切な生徒だからここに入れたんだよ。

 

 

神代はこれから他の女を招くことがあるのだろうか。

 

 

あるいは保健医だったりするのだろうか。

 

 

どっちでもいい。そんなことを想像するとちょっとイラっとくる。

 

 

 

 

「散らかってるけど」と神代は言ったけど、部屋は綺麗に片付いていた。

 

 

部屋の真ん中にセミダブルのベッドが一つ。起きぬけなのか布団が上のほうで絡まっていた。神代は布団を慌てて直す。

 

 

あたしはその間部屋をぐるりと見渡した。

 

 

左手に据付のウォークインクローゼットがある。そこから衣服の袖みたいのがはみ出していた。

 

 

どうやら今朝は慌しかったみたい。慌てている神代の姿が安易に想像できる。

 

 

それが何だか可愛い。

 

 

そう思ってはっとなった。何考えてるんだ、あたしは。

 

 

その考えを吹き飛ばすように、あたしは床に視線を這わした。

 

 

車の雑誌が三冊ほど転がっている。

 

 

 

「車、好きなの?」あたしが聞くと、神代は慌てて雑誌を取り上げた。

 

 

「とてもじゃないけど今は買えないから、見るだけね」

 

 

神代は恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

 

やっぱり……可愛い。

 

 

 

そう思うのは変なのかなぁ。

 

 

 

 

 

P.234


 

 

「男の人の部屋ってもっと散らかってるもんでしょ?先生の部屋は綺麗だよ」

 

 

あたしはそう言ってベッドの端に腰を下ろす。

 

 

雑誌を片付けている神代はさっきから足取りが危ない。

 

 

無理もないか。相当飲んでたもんね。

 

 

なんて考えてるとふいに神代の体が傾いた。

 

 

 

 

「あぶなっ!」

 

 

声を上げたと同時に神代がドサリとあたしの上に被さってきた。神代の重みを何とか受け止める。

 

 

「った~、ちょっと先生!大丈夫?」

 

 

咄嗟に怪我したほうの腕や肩を庇ったから良かったものの、傷が開いたらどうしてくれるんのよ!

 

 

「ごめっ……!」

 

 

神代はすぐに体を退けようとしたけど、手がずるりとシーツの上を滑った。

 

 

神代の息を、鼓動を、体温を間近で感じる。

 

 

 

「別に……いいよ」

 

 

もっと……こうしていたい。

 

 

何でそう思ったのかな?

 

 

何でこうしようと思ったのかな?あたしは神代の細い腰に手を回して背中に手を這わせた。

 

 

「鬼頭!?」

 

 

神代が慌てる。声が引っくり返ってるよ。

 

 

「ホントだ。細マッチョ。引き締まった体してるね」あたしはクスクス笑った。

 

 

神代は大人しくされるがままだ。酔って身動きがとれないのだろうか。

 

 

神代の重みを感じる。柔軟剤の香りを体いっぱいに受ける。

 

 

 

それが何だか嬉しかった。

 

 

でも……

 

 

 

神代の背中は僅かに震えていた。

 

 

 

P.235


 

 

「先生……?震えてる?」

 

 

なんで……?

 

 

あたしはそっと問いかけみた。

 

 

「鬼頭……ごめん、ごめんな……」

 

 

神代は消え入るように、小さく……ホントに小さく切れ切れに言葉を返してきた。

 

 

神代の背中の震えは止まらない。

 

 

何かホントに怖い思いをした子供のようだ。

 

 

我知らず……あたしはその背中をそっと撫でさすっていた。

 

 

子供をあやす母親のそれに似た手付き。愛情を込めて……

 

 

 

 

「……怖かった。鬼頭が……楠と重なって。僕はまた何もできなかった」

 

 

 

最後の方は言葉がかすれて消えかけていた。

 

 

それでもあたしにははっきりとその言葉が届いた。

 

 

 

神代……乃亜姉のこと覚えててくれたんだね。

 

 

それは乃亜に対して悔恨の意を感じてるから?それともあたしに対する懺悔なの?

 

 

 

何で泣いてるの?何が悲しいの?

 

 

何を恐れているの……

 

 

 

 

 

 

皮肉だね。

 

 

あたしはこの瞬間、神代が乃亜のことを少しでも覚えていてくれたことにちょっと嬉しさを覚えたんだ。

 

 

 

でもあたしはこの瞬間、全ての答えを知ってしまった。

 

 

 

―――あなたが、一番傷つく方法も……

 

 

 

 

「……怖かった。鬼頭が……楠と重なって。僕はまた何もできなかった」

 

 

 

「うん」

 

 

 

神代がどんな言葉を欲しがってるのかわかってたけど、あたしは気づかないふりをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.236


 

 

神代は落ち着くと、鼻をすすりながら起き上がった。

 

 

「ごめん。かっこ悪いところ見せた」

 

 

起き上がった神代の顔はどこかすっきりとしていた。悲しみや不安をどこかに置いてきたみたいだ。

 

 

 

 

でもこの一瞬だけだ。悲しみはまたやってくる。何度でも、何度でも……

 

 

あたしが生きてるかぎり。

 

 

 

「かっこ悪くなんてないよ。先生はいつだってあたしの前では世界一かっこいいんだから」

 

 

神代はびっくりしたように目を丸めて、ぱちぱちと瞬いた。

 

 

あたしはちょっと笑った。

 

 

 

「なんてね」

 

 

あたしの言葉に神代は「何だ冗談か」とちょっと苦笑いを漏らしてた。

 

 

 

 

―――

 

――

 

 

何時間たっただろう。

 

 

痛みで目が覚めた。左肩から手首にかけてと、腰の辺りがまるで刃物でつつかれてるみたいな痛みを感じる。

 

 

痛い。

 

 

痛い、なんてもんじゃない。ガラスに突っ込まれたときより何倍もの痛みだ。

 

 

まるで焼かれてるみたい。

 

 

遠くでドアが開く音がした。

 

 

うっすらと目を開けると、扉の向こう側の灯りを背景に神代が立っていた。

 

 

 

 

 

先生……痛いよ。

 

 

 

あたしは手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

でもきっと乃亜姉の痛みには比べ物にならないよね。

 

 

 

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「鬼頭!大丈夫か?」神代の声が遠くで聞こえる。

 

 

遠く、近く……まるでエコーがかかってるみたい。

 

 

神代は屈んで何か言うと、足早に行ってしまった。

 

 

 

待って!どこにも行かないで……

 

 

近くに……いて……

 

 

 

そんな願いが叶ったのかな?神代はすぐ戻ってきた。

 

 

「鬼頭、薬だ。飲みなさい」

 

 

薬!!冗談じゃない!あたしは薬が大嫌いなんだ。

 

 

飲むぐらいなら痛いのを我慢する。

 

 

 

 

神代は困ったように眉を寄せている。

 

 

ごめん先生…あたしにも苦手なものはあるんだ。

 

 

 

神代は何やらごそごそと身動きすると顔を近づけきた。

 

 

あたしを仰向けにさせると、

 

 

あたしの唇に唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 

キス―――

 

 

 

かと思った……

 

 

 

 

ゴクン。あたしの喉を錠剤が通った。

 

 

……なんだ、薬だったんだね。

 

 

 

 

あたしちょっと期待しちゃったじゃん。

 

 

 

だめだ。あたし今痛みで変。

 

 

 

 

 

口移しだと分かってても……

 

 

ちょっと嬉しかったんだ。

 

 

 

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あったかい……

 

 

神代の……先生の手だ。

 

 

先生の柔らかい髪があたしの頬にかかる。シャンプーの香りがする。

 

 

 

 

 

先生の唇……

 

 

 

 

不思議だね。最初のキスのときも思った。

 

 

先生の唇って冷たいかと思ってた。

 

 

乃亜姉にあんな酷い仕打ちをしたんだもん。もっとずっと冷たい人間だと思ってた。

 

 

 

だけど、あなたの唇は熱を持ったように熱くて……

 

 

 

 

柔らかい。

 

 

 

 

 

キス……

 

 

 

 

 

―――どれぐらい眠っただろう。

 

 

目覚めは突然やってきた。パチッと目を覚ますと、目の前に神代の寝顔のドアップがあった。

 

 

あたしはびっくりして文字通り飛び上がりそうになった。

 

 

何で!?何で隣に神代が寝てるの?

 

 

混乱する頭を整理させるため、あたしは起き上がろうとした。そこで初めてあたしの手がしっかりと神代の手に絡みついてることに気づいた。

 

 

何で……あたし手……

 

 

まだ完全に起き切っていない頭に鞭打ってあたしは思考をフル回転させた。

 

 

 

 

昨日……

 

 

 

 

 

そっか、あたしが「傍にいて」ってお願いしたんだった―――

 

 

 

昨夜のことを思い出すと、顔から火が出そうだった。

 

 

痛みで朦朧としているとはいえ、あたしは何て恥ずかしいことを口にしたんだ。

 

 

一人で身悶えてると、隣で神代が

 

 

「……ん」と短く声をあげた。

 

 

 

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まぶたが震えて、長い睫を瞬かせると神代はゆっくりと目を開けた。

 

 

「……れ?鬼頭……?」

 

 

寝起きのかすれた声を上げてあたしをじっと見る。

 

 

「……おはよ」

 

 

「おはよぅ」神代は何やら幸せそうにふわふわと笑うと、また目を閉じた。

 

 

 

 

なにこれ……

 

 

超可愛いんですけど!

 

 

 

 

神代って寝起き悪い(?)の?小動物みたい。そういや飼い犬のゆずもこんな感じでいつも口元が笑っている気がする。

 

 

起こすべき?いや、気持ち良さそうにまた寝ちゃったし……

 

 

でも出勤時間とかもあるだろうし。

 

 

どうしよう……なんて考えてると、出し抜けに神代がパチッと目を開いた。

 

 

 

 

びっくり!した。急だったから。

 

 

 

 

 

「……雅?」

 

 

 

 

へ?今なんて言った?

 

 

 

なんて思っていると神代はあたしの首に手を回して引き寄せると神代は真顔であたしに迫ってきた。

 

 

な!!!

 

 

 

「ちょっと!先生!寝ぼけてるんですか?」

 

 

パチンっいい音が部屋に響いた。

 

 

 

 

思わず神代の頬を平手で打っちゃった。

 

 

 

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「ホンッとにごめん!!!」

 

 

その言葉をもう何度聞いたか。

 

 

あたしは「もういいですよ」とうんざりしながらトーストをかじった。

 

 

「僕低血圧なんだ……」

 

 

低血圧って言う範囲?別人だよ、あれは……

 

 

「他に何かしなかった?」神代が心配そうに向かい側からあたしを覗く。

 

 

「……別に……」

 

 

 

 

『雅』って名前で呼ばれたことは黙っておこう。

 

 

 

ドキンってした。だってあんなにはっきりと名前を呼ばれたの初めてなんだもん。

 

 

それに……ちょっと嬉しかった。

 

 

 

 

何言ってんだ、あたし。

 

 

あたしはそんな考えを吹き飛ばすようにトーストにかじりついた。

 

 

「鬼頭、今は傷痛まないか?」神代はコーヒーのマグカップを口につけて心配そうに眉を寄せた。

 

 

「今は大丈夫です」

 

 

「そっか。薬が効いてるんだな」神代はちょっと笑った。

 

 

薬……昨日、口移しで飲ませてくれたんだよね。きっと神代はあたしが覚えてるってこと知らないんだろうな。

 

 

それを考えるとまともに神代の顔を見れない。

 

 

「今日は学校を休みなさい。僕は出勤だけど、まこが代わりに来てくれるから」

 

 

あたしは顔をあげた。

 

 

「えぇ?あの保健医がぁ?」

 

 

P.241


 

 

 

「いいかい?誰か来てもドアを絶対あけないで。火の元には気をつけて。それから……」

 

 

何度聞いたか。あたしは小さな子供じゃないっつの。

 

 

「分かった、分かったから」

 

 

まだ何か言いたそうにしている神代の言葉を遮ってあたしはうんざりしたように答えた。

 

 

「ゆずと大人しくお留守番してるよ。ね、ゆず~」

 

 

あたしは怪我をしてない方で抱えたゆずを見て笑った。ゆずがそれに答えてくれるように口の端をちょっとあげた。

 

 

口の中でまだぶつぶつ言っている神代に、

 

 

「いってらっしゃ~い」と言い半ば追い出すように扉を閉める。

 

 

 

パタンと閉まったドアを見つめて、あたしはきっちり鍵をかけた。

 

 

ゆずを下に下ろすと、

 

 

「さ、取り掛かろうかしら」

 

 

とにっと唇の端をあげた。

 

 

 

 

 

 

 

P.242


 

 

あたしはまず明良兄に電話をかけた。

 

 

「あ、明良兄?」

 

 

『どうだ、そっちの守備は』

 

 

「上々だよ」あたしは喉の奥でちょっと笑った。

 

 

『怪我の具合は?』明良兄の声に心配の色がにじみ出ていた。

 

 

「今は、痛みもない。薬のおかげかな?」

 

 

『薬?お前薬嫌いじゃなかった?』

 

 

薬……

 

 

神代が飲ませてくれた。

 

 

あたしは唇をそっと指でなぞった。

 

 

「そんなことより、あたし今日一日学校休むことになったから。今のうちに神代の家を探ってみるよ」

 

 

『あんま無理すんなよ』

 

 

 

 

 

「うん。……あたしね、神代が一番傷つく方法見つけたんだ……」

 

 

 

 

『そっか。じゃあこんなこともう終わりだな』

 

 

明良兄の声にほっと安堵の色が混じった。

 

 

あたしはちょっと考えて、

 

 

「まだまだだよ。まだ足りない」

 

 

あたしの発言に明良兄がちょっと息を呑んだのが分かる。

 

 

明良兄はあたしがこんなことすることに反対してる。早く終わらせたいんだろうな。

 

 

だからあたしの計画を知ったら、明良兄は「絶対止めろ!」って反対するに決まってる。

 

 

 

 

 

 

でも……

 

 

「見つけたけど、あいつの好きな奴に近づくのは、まだやめないよ。あいつをとことんまで追い詰めてやるんだから」

 

 

 

 

まだ足りない。まだ傷つけ足りない。

 

 

 

あいつに死より辛い地獄を見せてやるんだから。

 

 

 

 

P.243


 

 

あたしはこうまでして何で神代を目の仇にするのか。

 

 

乃亜姉のことがあるから?

 

 

ううん……それだけじゃない気がする。

 

 

 

 

だって神代は十分傷ついてる。

 

 

あの細い肩に罪の十字架を背負っている。

 

 

 

 

でも乃亜姉を傷つけて死に追いやったのは

 

 

紛れもない神代自身なんだから。

 

 

 

 

許すことなんてできない。

 

 

 

 

 

あたしは明良兄と通話を切って、ケータイを畳んだ。

 

 

どこから何を探ろう。

 

 

一番最初に目についたのが、テレビ台の隣に置いてあるチェストだ。

 

 

直線的なラインで、扉はガラス製。どこにでもあるチェストだ。

 

 

ガラスの扉の向こうには赤や黄色のミニカーが飾ってある。スポーツカーのようだ。

 

 

そう言えば寝室にも車の雑誌が転がってたっけね。

 

 

 

 

車、好きなんだね。

 

 

そう言えばあたし神代のことあんまり知らないや。

 

 

 

両開きの扉の下に小さな引き出しがある。

 

 

引き出しを開けると、小さな紙袋が無造作に放り込んであった。

 

 

薬の袋だった。大学病院の名前が入っている。

 

 

 

あたしは薬の袋から中身を取り出した。

 

 

銀色のパッケージに入った錠剤。

 

 

 

“ハルシオン”って書いてある。

 

 

 

 

ハルシオンって―――

 

 

 

睡眠薬だ。

 

 

 

 

 

P.244


 

 

ピンポーン

 

 

インターホンが鳴ってあたしは錠剤の一つをパーカーのポケットに仕舞い入れ、慌てて薬の袋をチェストに戻した。

 

 

二回目が鳴って、せっかちにガチャガチャとドアノブを回す音がした。

 

 

ドアホンで確認すると、保健医だった。

 

 

ホントに来た……

 

 

 

「よ!どうだ具合は?」

 

 

保健医は欠伸をしながら無遠慮に部屋に入り込んできた。

 

 

「今のところは、大丈夫です」

 

 

「ったく、せっかくの休みだってのに何でお前と一緒に過ごさなきゃなんねーんだよ」と保健医は唇を尖らせてる。

 

 

だから言い返してやった。

 

 

「あたしだって、一人の方がいい」

 

 

保健医はにっと意地悪そうに笑うと、

 

 

「昨日より元気そうじゃねーか」と言ってあたしの額を軽く弾いた。

 

 

あたしはおでこを押さえながら、保健医を招き入れた。

 

 

 

 

昼近くまであたしは何故か保健医と一緒にリビングにいた。

 

 

保健医はふてぶてしく長い足をソファに投げ出し、寝そべって新聞を読んでる。

 

 

あたしを心配してる、というより監視してるみたいにあたしが動く度に新聞から目をあげて鋭い視線であたしを見据えてくる。

 

 

おかげであたしは下手な動きができない。

 

 

まぁ焦ることはないけどね。

 

 

だってこれからたっぷりとこの部屋にはいられるわけだし。

 

 

 

でも、息が詰まりそうだ。

 

 

あたしは見ていた神代の部屋にあった車の雑誌を投げ出すと、保健医も読んでいた新聞をおもむろに畳んだ。

 

 

「おい。

 

 

 

脱げ」

 

 

 

 

 

 

 

 

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はぁ!?

 

 

何言ってんの!?正気?

 

 

あたしが目を開いたまま一歩後ずさった。

 

 

「ばぁか。何警戒してんだよ。消毒だ。ついでに包帯も替えてやる」

 

 

消毒……なんだ……

 

 

あたしはちょっとほっとして胸を撫で下ろした。

 

 

でも、こいつの前で肌をさらすのは抵抗がある。何て言ったってこいつは危険人物。

 

 

前にも襲われそうになったしね。

 

 

だけど神代からこいつを奪うには色仕掛けしかないし。

 

 

どうしようか悩んでいると、保健医は苛々したように眉を吊り上げた。

 

 

「早くしろよ。何なら俺が剥ぎ取ってやってもいいぜ?ま、ガキの裸に興味なんてないがな」意地悪く口の端をあげる。

 

 

この!エロ保健医が!

 

 

あたしは仕方なしに着ていたパーカーのファスナーを下げた。

 

 

 

 

 

こういう時に限ってキャミ着てないんだもん。パーカーの下はブラ一枚だ。

 

 

だけどこんななりしてるけど、こいつは医者で、今あたしは怪我人なんだ。

 

 

 

 

 

「おっ。黒?お前エロいのつけてんのな」

 

 

保健医がちょっと意外そうに目を細めて、ソファの上に肘をついた。

 

 

「早くしてよね」あたしは目を細めて保健医を睨み返してやった。

 

 

 

 

 

 

 

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保健医の指は思いのほか細くて長くて……きれいだった。

 

 

繊細な手付きで包帯を取り外すと、慣れた手つきで消毒を済ませる。

 

 

鮮やかな手付きで包帯を巻くと、

 

 

「よし!もういいぞ」と言ってポンと軽く背中を叩いた。

 

 

「あ……ありがとうございました」

 

 

「どういたしまして」

 

 

保健医はそう言って持参してきたアルミの鞄に消毒液などを片付けてる。

 

 

ホントに興味がなさそうだ。

 

 

色仕掛けでも落ちないかも……

 

 

 

あたしがじっと保健医を見ていると、

 

 

「なんだよ?」とちょっと眉をしかめて保健医が顔をあげた。

 

 

「早く服着ろよ。風邪ひくぞ」

 

 

「ガキは興味ないんでしょ?」あたしはつんと顔を逸らした。

 

 

「何だ?襲ってほしいのか?」

 

 

意地悪く笑う。

 

 

「な!そんなこと誰も言ってない!!」

 

 

保健医は軽く笑い声を上げると、急に笑うのをやめて目を細めた。

 

 

「でも……。ふぅん。お前けっこーいい体してんじゃん。ガキのくせに」

 

 

「な!!何言ってんの!?」

 

 

あたしは慌てた。思わず握っていたパーカーを胸元まで引き寄せる。

 

 

だけど保健医はあたしのパーカーを取り上げて、あたしの腕を引いた。

 

 

 

ドサッと音がして、あたしはソファに倒された。でもさすが保健医。怪我をしてるほうに腕を回してあたしが痛がらないようにしてる。

 

 

保健医が覆いかぶさってきた。

 

 

いつかの保健室でも同じようなことがあった。

 

 

 

「ちょっ……」

 

 

 

顔を強張らせて言いかけたときに、

 

 

ガチャっと扉が開く音がしてあたしと保健医は同時にその音がする方へ顔を向けた。

 

 

 

 

 

呆然とした顔で、神代が突っ立っていた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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