TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後1時の嫉妬


 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「いってらっしゃーい」

 

 

鬼頭が笑顔で送り出してくれた。

 

 

それを思うとちょっと嬉しくなる。家に誰かいて、自分を送り出してくれるのって慣れないからくすぐったくもあり、思った以上にいいことなんだな、と実感する。

 

 

上機嫌で学校に着いたものの、職員室では昨日の事件の話で噂が持ちきりだった。

 

 

僕が職員室に一歩足を踏み入れると、噂をしていた先生たちがぴたりと話をやめ僕のほうを一斉に見る。

 

 

「また生徒が……?」

 

 

「今度は一年の鬼頭ですよ」

 

 

「去年は神代先生が受け持ってた楠だったでしょ?神代先生も災難ですよね」

 

 

ひそひそと話し声が聞こえる。

 

 

痛いほどの視線を感じながら、僕は自分の机に落ち着いた。

 

 

「あ、先生。おはようございま~す」

 

 

和田先生がいつもの調子で挨拶してきた。そのことにちょっとほっとする。

 

 

「おはようございます」

 

 

和田先生は僕の後ろに位置する机に鞄を置くと、椅子を引き寄せて僕の隣にきた。

 

 

「鬼頭、大丈夫でした?」

 

 

「え?」

 

 

「神代先生、病院までついていったんでしょう?」

 

 

「え、ええ。少し縫うことにはなりましたけど、傷跡は残らないみたいです」

 

 

「良かったですねぇ」和田先生は彼なりに心配していたのだろう。ほっと安堵した様子で胸を撫で下ろした。

 

 

「あの……鬼頭を怪我させた女生徒は……」

 

 

ずっと気になってはいた。彼女らがどうなったのか。

 

 

「いやまぁ、三年ですし。受験シーズンでしょ?それに鬼頭にも非があったわけで……。事故ということで厳重注意で終わりましたよ」

 

 

「そう……ですか」

 

 

鬼頭には何も非がない。

 

 

悪いのは僕だ。

 

 

 

 

僕は自分自身を罰しなければならない。そんな気がしてならないんだ。

 

 

 

 

 

 

P.248


 

 

授業が始まって教室に向かうと、鬼頭と違う学年の教室内でもひそひそと噂が流れていた。

 

 

噂にはたっぷりと尾ひれがついていたけど。

 

 

僕は聞こえてない振りを決め込んだ。

 

 

何とか午前中の授業を済ませると、僕は慌てて車に乗り込んだ。

 

 

まこがいるとは言えちょっと鬼頭の様子が気になったんだ。

 

 

制限速度の30キロもオーバーして車を走らせ、僕はマンションに辿り着いた。途中、警察が居なかったのが幸いだ。

 

 

昼の12時15分。

 

 

もうまこは来てる筈だ。

 

 

 

 

あの二人、仲がいいのか悪いのかよく分からないけど、うまくやってるのだろうか。

 

 

心配する気持ちが僕を急かして、鍵を開ける手が滑る。

 

 

ガチャっと音がしてドアノブが回る。玄関口にまこの大きな革靴があった。

 

 

良かった。ちゃんと来てくれたみたいだ。

 

 

僕がリビングの扉を開けると、

 

 

 

 

ソファの上に二人の重なった姿を見た。

 

 

 

 

 

まこが鬼頭を押し倒している―――ように見えた。

 

 

しかも鬼頭の上半身はブラ一枚だけだった。

 

 

 

 

P.249


 

 

扉を開けた瞬間、二人と目が合った。

 

 

「水月!や!違うんだ!!これは」

 

 

まこが慌てて起き上がる。

 

 

何か言わなきゃ……そう思ってたけど言葉が出てこない。

 

 

喋る、という動作を忘れてしまったように、僕は固まったまま微動だにできずにいた。

 

 

まこの下敷きになっていた鬼頭がむくりと起き上がる。

 

 

「誤解です」

 

 

一言短く言ってパーカーで胸元を隠した。隠しきれてない肩の白さが眩しいほどだった。

 

 

「そう、誤解だ!」

 

 

いたたまれなかった。まこが弁解すればするほど、何だか惨めな気持ちになる。

 

 

この場にいてはいけないのは、僕だけだ。

 

 

黙ったままくるりと方向を変えると、僕はリビングのドアノブに手をかけて扉を引いた。

 

 

「おい!水月。ちょっと待てって!」

 

 

まこが大またに僕の元へ来て、僕の肩を乱暴に掴んだ。

 

 

 

鬼頭に触れた手で、僕を肩を―――

 

 

 

「触らないでくれ!」

 

 

 

僕は叫んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.250


 

 

まこがびっくりしたように手を引っ込めた。

 

 

唖然とした顔で目をぱちぱちさせてる。

 

 

初めてだ。まこに怒鳴ったのなんて。

 

 

「あ……」ごめんと言いかけたとき、鬼頭の手が伸びてきて僕の肩に触れた。

 

 

いつの間にかパーカーを着ていた。

 

 

「先生、話を聞いてよ」

 

 

驚くほど低く、表情はすわっている。

 

 

鬼頭は僕より8歳も歳下なのに、この場の誰よりも冷静だった。

 

 

 

 

「林先生は傷の消毒してくれてただけだよ。でも足が滑ったあたしを助けてくれただけ」

 

 

「え?」

 

 

僕はまこを見た。

 

 

まこは肯定の意味なのか軽く肩をすくめただけだった。

 

 

「でも下着姿で……」

 

 

「消毒するのに、服着てできる?」鬼頭はちょっと笑った。別にバカにされてるわけではない。本当に無邪気な笑顔だった。

 

 

その笑顔に少しだけ安堵する。

 

 

「変なこと想像してたでしょ?」

 

 

鬼頭は口の端に笑みを湛えた。

 

 

 

 

そっか……

 

 

まこが鬼頭を押し倒して見えたのは、僕の勘違いだったのか。

 

 

ほっとするのと同時に勝手な想像したことに、僕は急に恥ずかしくなった。

 

 

よく考えればまこには千夏さんがいるし、

 

 

鬼頭はまこのことを好きではない。

 

 

 

 

あんな風に艶かしい関係に発展するはずなんてないのに。

 

 

 

 

 

 

 

P.251


 

 

「……ごめん」

 

 

僕は二人の顔を交互に見ると謝った。

 

 

「別にいいよ。ま、あんなシーン見たら誰でもそう勘違いするよね」

 

 

と鬼頭はまこを見上げると、髪をかきあげた。

 

 

 

 

今日もタンドゥルプアゾンの香りが爽やかに香ってる。

 

 

 

いつも思う。

 

 

鬼頭が髪をかきあげる仕草は……

 

 

とても色っぽい。

 

 

 

 

 

少女のようなあどけなさと大人のような色っぽさを併せ持ち、

 

 

そのアンバランスさが危うい。

 

 

 

って何を言っているんだ、僕は……

 

 

 

 

 

「お前昼飯食ってないだろう?何か作るよ。食ってけよ」

 

 

まこの言葉に僕は弾かれたように我に返った。

 

 

「え、いや。いいよ。もう時間ないし。ちょっと鬼頭の様子が心配だったから見に来ただけで」

 

 

 

 

「……ありがと。優しいんだね」

 

 

鬼頭は微笑んだ。大人の女が見せるちょっと妖艶な微笑みだった。

 

 

ちょっとドキリとする。

 

 

 

 

 

僕はさっきどっちに嫉妬したんだろう。

 

 

何にショックを受けたんだろう。

 

 

 

 

P.252


 

 

―――――

 

―――

 

 

長くて短い一日が終わった。

 

 

鬼頭と同じクラスの梶田は僕を見ると何か言いたそうに呼び止めたが、結局何かを言ってくるわけではなかった。

 

 

怒ってるという風ではなかった。

 

 

たぶん鬼頭のことが心配で、でも僕に容態を聞いてもどうにもならないと思ったんだろうな。

 

 

梶田、ごめん。鬼頭は今うちにいる。

 

 

でも、痛み止めが効いてるおかげかな、今はだいぶ落ち着いてるよ。

 

 

僕は心の中で呟いた。

 

 

 

 

マンションに帰ると、まこが待ちくたびれたようにぐったりしていた。

 

 

「まこ、今日はありがとう」

 

 

「ったく、ガキのお守りは疲れるぜ」

 

 

そう言って肩をちょっと叩く。

 

 

「鬼頭とは仲良くしてくれてた?」

 

 

僕が聞くとまこはちょっとうんざりしたように、目を細めた。

 

 

鬼頭は僕の寝室にいるらしい。僅かに開いたドアの隙間から光が洩れてる。

 

 

「仲良くも何も、あんなめんどくせぇ女初めてだぜ」

 

 

めんどくさい?

 

 

「肩凝った。ちょっとマッサージしてくれね?」

 

 

ソファに座ったまこが僕を見上げる。

 

 

「……うん。それぐらいなら」

 

 

僕はソファの後ろ側に回ると、まこの肩に手を回した。

 

 

 

僕とは作りも大きさもまるで違う広い肩。

 

 

こうゆうのを男らしいって言うんだろうな。

 

 

 

 

P.253


 

 

まこの茶色に染め上げたちょっと長めの髪が首筋に流れている。

 

 

色っぽいな……と感じた。

 

 

鬼頭の色っぽさとはまた種類が違う。

 

 

背骨に続く出っ張った骨もきれいに見えた。

 

 

 

そう言えば、まこを上から見下ろすなんてことあんまりないな。

 

 

身長の差があるからいつも見下ろされてはいるけど。

 

 

こうやって見ると、まこは何をとっても……

 

 

 

きれいだな。

 

 

 

突然まこを後ろからきゅっと抱きしめたくなった。

 

 

抱きしめて気持ちを打ち明けられたら……

 

 

 

 

ガチャ。

 

 

 

ふいに寝室の扉が開いて鬼頭が顔を出した。

 

 

僕はびっくりして、まこの肩から手を離した。

 

 

僕……一体どんな顔してただろう。

 

 

鬼頭は一瞬目を開くと、すぐに寝室に引っ込んでいった。

 

 

「何だあいつ?」

 

 

まこが不思議そうに首をかしげてる。

 

 

 

 

 

「……なんだろうね」

 

 

そう答えるしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

P.254


 

 

夕飯はまこが用意してくれてた。

 

 

彼はこう見えても結構料理上手だ。

 

 

テーブルの上にぶりの照り焼きと、サラダと味噌汁、肉じゃがが乗っていた。

 

 

一緒に食べていかないかと誘ったが、疲れたから帰って寝ると言って早々に帰っていった。

 

 

夕飯は鬼頭と二人。

 

 

テーブルにずらりと並んだ食事を囲みながら、鬼頭が口を開いた。

 

 

 

 

 

「ねえ先生。先生ってあの保健医と寝たいと思うの?」

 

 

僕は飲んでいたビールを危うく吹き出すところだった。

 

 

寝……!!

 

 

「な!なに言い出すんだ」

 

 

「純粋な疑問。答えてよ」

 

 

鬼頭は箸を持つ手を休めて真剣な表情をつくっている。

 

 

寝たいって……

 

 

「……そんなことまで考えなかったよ」

 

 

正直な気持ちだった。そんなこと考えたこともない。

 

 

「ふぅん。じゃぁ保健医と何がしたいの?」

 

 

「何って……別に特には……」

 

 

何か特別したいという気持ちは無かった。と言うかあまり知識がない、と言った方が正しいか。

 

 

僕はもう一口ビールに口をつける。

 

 

「じゃぁチューは?」

 

 

「ゲホッ!ゴホっ……チ、チュー?」

 

 

今度こそビールが喉の変なところに入っていって思い切りむせた。

 

 

「大丈夫?」鬼頭が眉を寄せて訝しげにこちらを見ている。

 

 

僕は手だけで答えて、何とか息を整えた。

 

 

 

 

 

僕が慌てたのには訳がある。

 

 

 

 

キス……

 

 

 

僕は寝ている鬼頭にキスをした―――

 

 

まさか……

 

 

起きてたわけじゃないよな……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.255


 

 

いや、でも鬼頭はまことキスしたいか、と聞いているのだ。

 

 

まこ、とは……

 

 

「考えなかった……」

 

 

鬼頭は大きな目でじっとこちらを見ている。

 

 

探るような、視線だった。

 

 

僕は降参した。

 

 

「……ってのは嘘。したいと思うよ。ただ、その先までは本当に考えてない」

 

 

鬼頭は口の端をちょっと上げて笑った。

 

 

「ん。正直は宜しい」

 

 

って、何でこんな話してるんだろ、僕。

 

 

鬼頭の前では僕はいつでも丸裸同然だ。いつも気持ちを見透かされてる。

 

 

それと同時に、彼女には何でも話せる気がするんだ。

 

 

 

 

何でも。

 

 

鬼頭は再び箸を動かした。

 

 

目だけを伏せてちょっと微笑したまま口を開く。

 

 

「ちょっと気になるなって思うと、相手のこと知りたくなるじゃん。知ったら、好きになって、そうすると自分のほうを見て欲しくなる。

 

 

最初は見てるだけで良かったのに、気持ちだけがいつも先に行っちゃう。

 

 

欲望って果てしないよね」

 

 

 

その通りだ。と思った。

 

 

僕は最初まこのこと見てるだけで良かったんだ。ただ彼の視界に入るのが嬉しくて、意味もなく彼に会いに行ったんだっけ?

 

 

それがいつの間にか、膨れ上がって……

 

 

 

「ね。先生はあの保健医のどこが好きなの?」

 

 

唐突な質問だった。

 

 

僕は目をぱちぱちさせると、鬼頭を見た。

 

 

何の意図があってそんな質問したんだろう。でも鬼頭の顔からは何も読み取れなかった。

 

 

 

「どこって……どこだろう……」

 

 

鬼頭は顔を上げると吹き出した。

 

 

「なにそれ」

 

 

「そう言えば、僕最初はまこのこと大嫌いだったんだ」

 

 

 

 

 

P.256


 

 

鬼頭はきょとんとして目をぱちぱちとしばたいた。

 

 

「だってまこは、最初僕を女と間違えたんだよ。まぁよく間違えられるけど。名前も女みたいだし」

 

 

僕は唇を尖らせた。

 

 

「あぁ、それ。今日聞いた。口説かなくて良かったって」

 

 

鬼頭が笑い声が混じった声で言った。

 

 

僕はちょっとむっとしてビールをぐいと飲んだ。

 

 

女っぽいってのは、僕のコンプレックスでもあるから。

 

 

「まこが落とした定期券を届けたのが僕だったんだ」

 

 

鬼頭はテーブルに頬杖をついてちょっと笑った。

 

 

「ありがちな展開だね。そこから恋が生まれたんだ」

 

 

「や。その時点ではまだ……

 

 

ていうか、鬼頭は?今までの恋は?」

 

 

「あたし?」鬼頭は目だけを上げて僕を見上げた。

 

 

猫が遊んで欲しいっていっているような媚びているようなでも悪意はない、可愛らしい仕草だった。

 

 

ドキリとした。

 

 

 

 

何で……

 

 

何で、心臓が音を立てるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

P.257


 

 

 

 

 

 

「あたしは今までなんてないよ。

 

 

先生が始めて。

 

 

初めて人を好きになったんだ」

 

 

 

 

え―――?

 

 

 

「お勉強ばっかしてきたから、恋したらどうすればいいのか分かんなかった。

 

 

数学の公式みたいに簡単に解ければいいのに、ね」

 

 

長い睫を伏せて、ちょっと感慨深げに答える。

 

 

 

 

簡単に……

 

 

簡単にいく恋愛なんてこの世にはないんだよ、鬼頭。

 

 

人を好きになるのは素晴らしいことだけど、とても苦しくて辛いことばかり。

 

 

それは学校の授業でも教えてくれない。

 

 

恋は時に人を死にも誘う恐ろしいもの。

 

 

だけど恋なしじゃ生きられない。

 

 

 

 

 

ごめんね、鬼頭。

 

 

 

 

ごめんね……

 

 

 

 

P.258


 

 

僕は話題を変えるため肉じゃがに手を伸ばした。

 

 

じゃがいもを一口口に入れると、僕は目を開いた。

 

 

「この肉じゃがおいしいね」

 

 

「それ?それはあたしが作ったの」

 

 

へ?鬼頭が?

 

 

「保健医から聞いた。先生が肉じゃが食べたがってるって。

 

 

おいしいって言ってくれてよかった」

 

 

鬼頭ははにかんだように笑った。

 

 

可愛い笑顔。鬼頭と1対1で喋るまで、鬼頭がこんな風に笑う子だなんて思わなかった。

 

 

いつも何か悟ったような、つまらなそうな顔をしていたから。

 

 

いつも考えてた。この子は何を考えてるんだろうなって。楽しいこと、幸せなことってあるのかな、って思ってた。

 

 

 

 

 

でも今は……彼女の色んな一面を僕だけが知ってる。

 

 

口の端をあげて大人っぽい笑顔をすることとか、恥ずかしそうにちょっと笑うところとか。

 

 

冷たそうに見えて、心の中は意外に情熱的だとか。

 

 

料理が上手だとか。

 

 

 

 

僕だけが―――

 

 

 

 

 

P.259


 

 

―――

 

 

食事を終わって僕が後片付けをしていると、鬼頭はゆずと一緒にテーブルに何か紙を広げていた。

 

 

「あ~、だめだよっゆず。これは食べ物じゃないの。

 

 

君はさっき食べたでしょ」

 

 

時折キャハハっと声をあげてゆずと遊んでいる。

 

 

ゆずはすっかり鬼頭が気に入ったようで、彼女にべったりだ。

 

 

愛情を注いで育てたのは僕なのに、ちょっと嫉妬。

 

 

だけど、仲良くなってくれて嬉しく思う。

 

 

僕が洗い物を終えてリビングに戻ると、鬼頭は頬杖をついてう~んと唸っていた。

 

 

真剣に悩んでいるから宿題かと思いきや、テーブルに乗った紙は

 

 

“校内イケメンコンテスト”って書かれてた。

 

 

僕はがくりときた。

 

 

「鬼頭もこんなものに興味があるんだ」

 

 

「こんなんがあるなんて最近知った。1番はやっぱり先生でしょ?2番は……」

 

 

すでに1位の欄には僕の名前が書き込まれてた。

 

 

 

嬉しいような、恥ずかしいような……

 

 

でもやっぱり、

 

 

「恥ずかしいかヤメテ」

 

 

僕が鬼頭の手元から紙を抜き取る。

 

 

「何で?いいじゃん」

 

 

「良くないよ。恥ずかしいよ、こんなの」

 

 

「ちょっと返してよ」

 

 

鬼頭が手を伸ばす。

 

 

気づいたら僕と鬼頭の顔が至近距離にあった。

 

 

 

 

ドキリ。

 

 

 

また心臓が音を立てる。

 

 

 

P.260


 

 

ドキン、ドキン……

 

 

鬼頭といると僕の心臓はどうにかなってしまいそうだ。

 

 

いつかの車の中でのキスを思い出す。

 

 

思い出して、心臓が引っくり返りそうになった。

 

 

「き……」

 

 

言いかけたところに、

 

 

~♪

 

 

チェストの上に置いた僕のケータイが鳴った。

 

 

「ちょっとごめん」僕は立ち上がった。

 

 

ケータイのサブディスプレイを見ると、

 

 

 

 

 

着信:エマさん

 

 

 

となっていた。

 

 

 

 

 

 

P.261


 

 

僕はケータイを手に目を瞬いた。一人だけ時が止まったように微動だにできずに居る。

 

 

~♪

 

 

「どうしたの?ケータイ鳴ってるよ。出ないの?」

 

 

ケータイを手に固まったままの僕を見て鬼頭が訝しげに聞いてくる。

 

 

「……うん、ちょっとごめん」

 

 

僕は鳴り続けるケータイを手に寝室に向かった。

 

 

ピッと通話ボタンを押して耳にあてる。

 

 

『…も…もしもし…』

 

 

受話口から控えめなエマさんの声が聞こえてきた。

 

 

「もしもし」

 

 

『ごめんね、電話なんてしちゃって』

 

 

「いいよ。どうかした?」

 

 

声が小さくなるのはやっぱり鬼頭が隣の部屋にいるって意識しているからだろうか。

 

 

別に浮気してるとかそんなことじゃないのに、どうしても後ろめたい。

 

 

『……あの、クリスマス!』

 

 

「クリスマス?」

 

 

『うん。24日って空いてないかなって思って……』

 

 

 

クリスマス……そう言えばもうそんな時期だっけ。

 

 

クリスマスイブは予定がなかった。

 

 

だけど……クリスマスイブを一緒に過ごすってことは、恋人になるってこと前提だ。

 

 

「……ごめん」

 

 

僕は小声で謝った。

 

 

声が小さくなるのは、エマさんに申し訳ないと思うのか。

 

 

今隣室にいる鬼頭に対して後ろめたい気持ちがあるのか。

 

 

どちらなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.262


 

 

『……それって、あたしはフられたってこと?』

 

 

「……」僕は黙るしかなかった。

 

 

沈黙なんて卑怯だと思った。だけど、そうするしかできなかった。

 

 

『…だって水月くん付き合ってる人いないんでしょ?どうしてあたしはだめなの?』

 

 

僕は詰まった。

 

 

大人しそうなエマさんからこんな言葉が出るなんて。

 

 

僕はぐっとケータイを握った。

 

 

たっぷり時間をかけて含ませたあと、

 

 

 

 

 

「……好きな人がいる…」

 

 

 

 

と言った。

 

 

 

一瞬の沈黙。

 

 

 

エマさんが言葉を呑んだのが分かる。

 

 

 

僅かな沈黙のあと、しゃくりあげる声が聞こえた。泣いているのだ。

 

 

『好き……な人が…いるのに、あたしと寝たの?』

 

 

 

 

 

「ごめん」

 

 

 

僕はそう言うことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

P.263


 

 

『…ック。納得…いかない……』

 

 

そうだよね。

 

 

いけないのは僕なんだ。

 

 

『電話じゃなくて…せめて会って直接顔見て……話したい』

 

 

エマさんは強い人だ。

 

 

僕ならとてもじゃないけど、フられた相手と会うことなんてごめんだ。

 

 

でも僕ができることは、一つしかない。

 

 

会って、直接顔を見て謝るんだ。

 

 

「じゃぁ、今週の土曜日とかどう?一度ちゃんと話そう」

 

 

『ヒック……うん』

 

 

「駅前の“As庵”ってカフェ分かる?そこで……そうだね、午後3時とか」

 

 

『……うん』

 

 

通話は切れた。

 

 

ふぅっと大きなため息が洩れる。

 

 

ケータイを畳んで、寝室から出ると鬼頭が大きな澄んだ黒い目でこちらをじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

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