TENDRE POISON 

~優しい毒~

『陰謀、企み、そして恋心』

◆午後11時の電話


 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

約束の放課後になっても、鬼頭は現れなかった。

 

 

今まで鬼頭は何だかんだ言いつつも、僕との約束を破ったことはない。

 

 

約束を破るなんて初めてだ。

 

 

急用が入ったのかな?

 

 

いや、それにしても一言言って欲しかったのに。

 

 

 

『ただの生徒と教師。それ以下でそれ以上でもない』

 

 

ふいに鬼頭の放った言葉が甦る。

 

 

 

まこは勘ぐり過ぎだ……

 

 

僕たちの間には何もないのに……

 

 

 

じゃあ何でキスした?

 

 

 

彼女の気紛れかもしれない……

 

 

気紛れでキスなんてするなよ。

 

 

一人慌てた僕が馬鹿みたいじゃないか。僕にとっては一大事な出来事だったのに、今日びの女子高生にはこれが普通なことなのだろうか。

 

 

 

でも……

 

 

 

先生ノコトガ好キナノ

 

 

 

あの言葉が蘇る。

 

 

一体、どこまで本気でどこまで嘘なのか。

 

 

 

僕は心が動かされ始めてる。

 

 

 

拒絶されてると思いきや、いきなり近くまで入って来る。

 

 

 

そしてまた拒絶。

 

 

 

 

 

鬼頭のことが分からないよ。

 

 

 

P.81


 

 

 

結局一時間待っても二時間待っても、鬼頭は現れなかったので作業は僕一人がやることになった。

 

 

 

 

 

プリントを束ねながら―――

 

 

 

何だかうまくいかないな……

 

 

 

鬼頭は現れないし、まことも喧嘩みたいになってるし。

 

 

 

ふぅ……

 

 

我知らず、ため息が出る。

 

 

 

 

 

 

 

『先生、こっちはできたよ。

 

 

先生ってのろいね。貸して。あたし手伝う』

 

 

 

 

 

昨日の会話を思い出す。

 

 

聞けば随分な言われようだ。しかもお願いしている僕よりも鬼頭は作業が早い。

 

 

と言うか飲み込みが早いと言うべきか。僕が頼んだことは一回教えただけでミスなくこなす。まぁ作業と言っても生徒にさせるぐらいだから大したものじゃないと言えば大したことないが、それでもここまでソツなくこなす鬼頭が何で数学の回答に未記入で提出したのか、益々謎だ。

 

 

一人で作業をしながら考えてるのは鬼頭のことばかりで。

 

 

こんな自分がイヤになる。

 

 

そう言えば、今日はタンドゥルプアゾンの香りがない。

 

 

 

 

それが何だか寂しい……

 

 

 

 

 

 

 

P.82


 

 

 

―――

 

 

次の日になって、

 

 

僕は昇降口で鬼頭を見つけた。

 

 

黒い長い髪を耳のラインで束ねている。

 

 

むきだしになった白い耳には相変わらずたくさんのピアスがついていた。

 

 

 

 

鬼頭の白い横顔は若干疲れてはいそうだったが、具合が悪そうではない。

 

 

良かった。体調を崩したわけではなさそうだ。

 

 

 

 

「鬼頭」

 

 

僕が呼びかけると、鬼頭は振り返った。

 

 

いつもは迷惑そうに顔をしかめるのに、今日は違った。

 

 

 

ちょっと驚いたように目をみはり、そしておびえたように肩を後退させた。

 

 

 

 

 

何で……

 

 

 

 

僕、何かした?

 

 

 

P.83


 

 

 

それともいきなり声をかけたからびっくりしたのかな?

 

 

「あ、ごめん。急にびっくりした?」

 

 

鬼頭は首を横に振った。

 

 

 

 

僕はちょっと苦笑いをすると、

 

 

「昨日、何で来なかった?」

 

 

と聞いた。

 

 

 

 

 

「ちょっと、気分が悪くなって」

 

 

鬼頭はそっけなく答えると、僕から視線を外した。

 

 

 

 

 

何で?

 

 

 

なんで目を逸らす?

 

 

 

 

 

 

僕は鬼頭の肩を掴んで、こちらを振り向かせた。

 

 

鬼頭の肩はびっくりする程華奢だった。そしてその華奢な骨を覆う皮膚は柔らかかった。

 

 

僕は女性の身体に触れたのは......もちろんはじめてのことじゃない。

 

 

この衣服の下、肌に直接触れたこともある。もちろん鬼頭以外の......生徒でもない女性の、だ。

 

 

やや強引とも呼べる仕草だ。誰かに見られでもしたら変な誤解を受けるかもしれない。

 

 

慌てて手を退けようとしたけれど、何故だか僕の手は鬼頭の肩から離れない。

 

 

まるで、『離したくない』とでも言っているようで、戸惑った。

 

 

けれど鬼頭は僕の手を振り払ったりはせず、ただじっと...珍しい何かを観察するかのように僕を見据えているだけだ。

 

 

「気分が悪くなったのなら断ってくれても構わない。だけど一言言ってくれたっていいじゃないか?

 

 

僕はずっと待ってたんだよ」

 

 

 

それまでまるで珍しい生き物を観察するかのような鋭い視線だったのに、ここにきて鬼頭は大きな目をぱちぱちさせた。

 

 

 

やば!これじゃまるで恋人同士の痴話喧嘩じゃないか。

 

 

 

僕は慌てて鬼頭の細い肩から手を放した。

 

 

 

 

P.84


 

 

 

鬼頭は肩にかけた鞄を直すと、

 

 

「ごめん。ずっと待ってったんだ?」

 

 

と素直に謝った。

 

 

 

 

 

まただ……

 

 

 

また、僕のことを否定しようとするくせに、素直になる。

 

 

 

 

 

「代わりに何か手伝うよ」

 

 

「え……いや……」

 

 

と言いかけて、

 

 

「やっぱ手伝って。二年生の宿題のレポート作成するのを」

 

 

「レポート?そんなことあたしにやらせていいの?」

 

 

そう言った鬼頭の顔はいつも通りで、僕は幾分かほっとした。

 

 

 

 

「二年生のだから、いいよ。手伝ってくれる?」

 

 

「うん、分かった」

 

 

 

鬼頭は静かに頷いた。

 

 

 

そのままくるりと踵を返す。

 

 

 

 

 

「待って!」僕はその後ろ姿に問いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

P.85


 

 

僕はジャケットのポケットから手帳を出すと、その一枚を破いた。

 

 

その紙に自分のケータイの番号を乱雑に書き込む。

 

 

急いで書いたから乱れていたが、読み取れない程でもない。

 

 

「これ、僕の番号」

 

 

 

 

僕が鬼頭の手にそのメモの切れ端を握らせると、彼女は半ば強引に受け取らされてた白い紙に視線を落とし目を開いていた。

 

 

「あ、その。

 

 

君、ご両親不在だって聞いたし、何か困ったことがあったら掛けてきなさい。

 

 

それに、昨日のようなことがあったらそこに掛けてくれたほうが助かるし」

 

 

僕は慌てて言った。

 

 

 

早口になるのは、照れ隠しか、それとも一人の生徒にここまでするということがルール違反である、と言うことが分かっていることに対する罪悪感か。

 

 

 

 

そのどちらとも言えない感情で僕の心は複雑だった。

 

 

 

 

生徒に個人的な連絡先を教えるの初めてのことだった。

 

 

 

よくケータイの番号や家の場所を聞かれるが、教えたことはない。

 

 

いつもうまくはぐらかしていた。

 

 

生徒に連絡先を教えるのは禁止されていないが、教師と生徒間の当たり前のルールだし、社会人常識的に指摘されるまでもない。

 

 

多感な年頃の彼らが、僕に教師以上の感情を抱くのは良くない。

 

 

たとえいっときの感情であれ、たとえ夢を見ていただけであれ、僕たちの関係は教師と生徒。

 

 

それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

だから僕は、今まで勘違いさせるような状態を極力避けてきた。

 

 

でも

 

 

鬼頭は頭の良い子だから、これが単なる教師としての心配だと素直に受け取るだろう。

 

 

 

 

 

「ありがと。

 

 

 

先生って優しいね」

 

 

 

 

 

鬼頭は笑った。

 

 

 

あのこぼれるような特徴のある笑顔だ。

 

 

 

 

 

また……

 

 

 

 

彼女は僕の心を嵐のようにかき乱す。

 

 

 

 

 

 

 

P.86


 

 

 

結局レポート作りは、明日からお願いすることになって僕と鬼頭は別れた。

 

 

まだ鬼頭の体調が万全ではなさそうだったからだ。

 

 

 

―――――

 

――

 

 

 

その日一日は僕のケータイに電話が掛かってくることはなかった。

 

 

何度もケータイを見ては、着信が無いことに、複雑な心境を抱く。

 

 

ほっとしてる?それとも残念―――

 

 

 

分からない。

 

 

 

 

らしくないな。

 

 

それこそ、高校生みたいだ。

 

 

 

でも掛かってこないところを見ると特に一大事があったわけではなさそうで、ほっとした。

 

 

 

鬼頭……

 

 

 

一人暮らしだって言ってた。

 

 

 

ちゃんと食べてるのかな?料理はするのかな?

 

 

 

一人じゃ寂しいよ……

 

 

 

 

 

いつか、いつか……二人で笑いあって食事ができたらな……

 

 

 

 

 

 

 

なんて考えて、僕ははっとなった。

 

 

何を考えてるんだ!?

 

 

相手は教え子だぞ!

 

 

一生徒に個人的な感情移入をするなんて、僕は教師失格だ。

 

 

そもそも、そう言う関係に誰よりも線引きをしていたのは自分自身じゃないか。

 

 

 

 

 

教師失格。

 

 

 

 

もう一度心の中で復唱し、僕はビールの缶に慌てて口をつけた。

 

 

 

 

 

P.87


 

 

 

ビールの缶の脇に置いたチョコレートが今日のおつまみだった。

 

 

友人の海外土産にもらった、ブラックベリー味の珍しいチョコだ。海外製なだけあってやたらと甘みが多くて味が雑だ。

 

 

でも構わない。

 

 

僕は甘党だ。

 

 

チョコやケーキなどの甘いものに目がない。

 

 

だけど甘いものは摂取過ぎるのも良くない。糖尿病になる恐れだってあるし。

 

 

と言うわけでなるべく摂らないようにはしているが、

 

 

たまの贅沢(?)だ。

 

 

大好きなビールとチョコ。すぐ隣には愛犬のゆず。最高の贅沢だ。

 

 

 

以前まこに、

 

 

「女みてぇ」なんて笑われたことがあったっけ。

 

 

まこのほうこそ、スルメやエイヒレなんかをつまみにしておやじくさいよ。

 

 

 

 

うそ……

 

 

 

そっちのほうがずっとかっこいい。

 

 

ずっと男らしい。

 

 

 

 

チョコをかじってると、ゆずが物欲しそうに僕の周りをうろうろ。

 

 

小さな前足をちょこんと僕の膝に乗せ、物欲しそうに僅かに舌を出している。

 

 

「ごめんね。ゆずは食べられないんだ」

 

 

僕がゆずを抱き上げると、可愛いその顔に向かって申し訳なさそうに謝った。

 

 

 

 

 

TRRRR

 

 

 

ふいにテーブルに乗せたケータイが鳴って、僕はドキリとした。

 

 

ゆずをそっと下ろすと、テーブルの下でゆずがきゃんきゃん吠えてぐるぐる回っている。

 

 

ゆずなりに着信を教えてくれてるみたいだ。

 

 

 

 

ドキン、ドキン……

 

 

高鳴る心臓を押さえながら、ケータイを手に取った。

 

 

 

 

 

P.88


 

 

 

着信:まこ

 

 

となっていて

 

 

「なんだ……」

 

 

言ってから、はっとなった。

 

 

まこからの電話は嬉しいはずなのに。どこか残念に思っている僕が居る。

 

 

まこ、とは―――何となく喧嘩して以来の電話だ。

 

 

 

 

 

「……もしもし?」

 

 

『よぉ。何してた?』

 

 

まるで恋人同士のような会話だ。

 

 

僕は思わず苦笑した。

 

 

 

 

「ゆず相手にビール飲んでた。まこは?」

 

 

『寂しいやつだな。俺は今彼女といる』

 

 

 

 

 

ズキン。

 

 

 

ひどく胸が締め付けられる思いだ。

 

 

さっきまで着信が鬼頭でなかったことを残念に思っていたのに。僕の心は一体何処にあると言うのだ。

 

 

 

「そう。じゃあ悪いから切るね」

 

 

これ以上まこのノロケを聞きたくない。無理やり切ろうとしたとき、

 

 

『―――待て待て』と受話口から焦るような声が聞こえた。

 

 

僕はもう一度ケータイを耳に当てる。

 

 

 

 

『お前三日後の夜暇?』

 

 

 

 

 

 

P.89


 

 

「……予定はないけど」

 

 

平日の夜だ。僕は部活動を受け持っていないし、習い事もしていない。これと言った予定もない。

 

 

帰る間際にコンビニに寄って弁当とビールを買って、帰ったらテレビを見ながらそれを食べるだけ。あとはゆずの相手だな。

 

 

考えたら随分寂しいが、普通の......しかも独り者の男の平日なんてこんなものだろう。

 

 

『じゃあ決まり。その日空けとけよ』

 

 

「空けておけって、どういうこと?」

 

 

 

 

 

 

『お前のために合コン企画したんだ』

 

 

 

 

 

は?

 

 

「……話がよく見えないんだけど。僕、頼んだっけ?」

 

 

『頼まれてねぇよ。でも、お前女作ったほうがいいって。

 

 

お前が鬼頭に振り回されるのは彼女がいないせいだ』

 

 

 

 

 

何でそうなる……?

 

 

 

「合コンなんて面倒だよ。気持ちはありがたいけど」

 

 

だって、僕が彼女を作らないのは、まこが好きだから……

 

 

 

『言うと思った。だけど、このままじゃお前いつかダメになるって。

 

 

無理やりにでも連れてくからな』

 

 

 

分かったよと頷いて、僕は電話を切った。

 

 

 

 

 

無理やり……

 

 

まこならやりかねないだろう。

 

 

僕は合コンする気もなければ、彼女を作る気もないのに……

 

 

 

 

TRRR

 

 

 

手の中のケータイが再び鳴って、またも僕はびくりとした。

 

 

 

 

P.90


 

 

 

着信:080-XXXX-XXXX

 

 

見慣れない番号だ。

 

 

 

ドキリとした。

 

 

出ようか、出ないか、悩んだ。

 

 

どうして悩む必要がある。

 

 

鬼頭に番号を教えたのは僕じゃないか。

 

 

そして掛かってくることを、心のどこかで望んでいた。

 

 

でも、いざ掛かってくるとなると躊躇した。

 

 

 

 

 

出てしまうと、取り返しのつかないところまで行ってしまいそうで

 

 

 

怖かった。

 

 

 

 

 

でも、僕は出ることにした。

 

 

このとき、心のどこかで微かな覚悟と言うものが出来ていたのかもしれない。

 

 

 

 

この後、僕は彼女にとことん堕ちる―――と。

 

 

 

 

 

「……も、もしもし…」

 

 

『―――先生?あたし、鬼頭だけど……』

 

 

軽やかな少し高めの声が聞こえた。

 

 

僕の心臓がドキリドキリと波を打ってる。

 

 

 

 

『もしもし?聞いてる?』

 

 

電話の向こうで鬼頭が訝しげな声で問いかけてくる。

 

 

「聞こえてるよ……ごめん」

 

 

『何で謝るの?』

 

 

クスクスと、電話の向こうでくすぐるような甘い声がした。

 

 

『遅くにごめんね…』

 

 

鬼頭のその言葉に僕は部屋の時計をちらりと見た。

 

 

時計は11時を指していた。

 

 

 

 

『今、何やってたの?』

 

 

まこと同じことを聞く。

 

 

まるで恋人のようだ。恋人……

 

 

 

 

 

 

だが今度のは意味合いが違う。

 

 

 

鬼頭とは何だかリアルだ。

 

 

「今は飼い犬相手にビール飲んでるところだよ」

 

 

『飼い犬?犬飼ってるの?犬種は?』

 

 

 

鬼頭の声が華やいだ。

 

 

 

「ロングコートチワワ」

 

 

『マジで?すっごい会いたいんだけど。犬すき』

 

 

鬼頭はなにやら楽しそうだ。

 

 

 

犬、好きなんだな。

 

 

 

 

 

 

「今度見に来る?」

 

 

 

 

P.91


 

 

 

『……』

 

 

電話の向こうが一瞬沈黙した。

 

 

「あ、ごめっ!!いや、変な意味じゃなくて……

 

 

友達とでも来てくれたら」

 

 

女生徒一人で来させるのはタブーだが、でも数人の友人たちを伴ってだったら、特別禁止されている事項でもない。

 

 

現に僕の同僚で、現国の教師である和田先生は、男子生徒だが数人を家に招いたことがあるらしい。

 

 

『てかあたしに友達なんて居ないし』

 

 

『何で?梶田とは仲良しじゃないか。友達が居ないなんて寂しいこと言うものじゃないよ』

 

 

と、通常の僕なら答えていたに違いない。でもそうしなかった。

 

 

鬼頭からの返答がかえってきたときは、良い断り口実が出来た、と言った感じだ。

 

 

どちらが?

 

 

彼女が?―――或いは僕が―――?

 

 

 

『でも、

 

 

 

会いたい』

 

 

 

 

会いたい?それは犬に?それとも僕に―――

 

 

馬鹿馬鹿しい。そんな質問自体馬鹿げている。

 

 

鬼頭はそう言ってくれたが、流石に一人暮らしの教師の家に連れ込むわけにはいかない。

 

 

「じゃあ今度ね」と僕は曖昧に濁した。

 

 

 

『大人の言うまた今度って信用ならない』

 

 

鬼頭の鋭い声が返ってきた。

 

 

僕はぐっとつまる。

 

 

 

なんて返したらいいのやら……

 

 

 

 

 

『じゃあ、三日後なんてどう?』

 

 

 

 

え?三日後って……

 

 

 

「いや、その日はちょっと……」

 

 

『何か予定でもあるの?』

 

 

「うん。ちょっと飲み会が……」

 

 

嘘ではない。でもどうしてこんなに後ろめたい気持ちになるのだろう。

 

 

 

 

『じゃあ明後日』

 

 

僕はほっとした。

 

 

「明後日なら……」

 

 

 

 

僕は思わず返事を返していた。

 

 

 

 

 

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