TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後2時のチューリップ


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

神代がケータイを片手に寝室にこもってもう10分になる。

 

 

短いのか、長いのか。

 

 

ぼそぼそと話し声が聞こえる。

 

 

誰と話してるんだろ?

 

 

友達?家族?それとも保健医―――?

 

 

分かんないけど―――分かんないからか、心の中が何だかもやもやとくすぶってる。

 

 

 

 

 

一つ分かることは、あたしに聞かれたくない話をしてるってことだけ。

 

 

 

あたしが膝を動かすと、その上で眠っていたゆずの耳がぴくりと動いた。

 

 

「ごめんね、起こしちゃったね」

 

 

ゆずに謝りながら、あたしはゆずの頭をそっと撫でた。

 

 

ふわふわの毛の感触が気持ちいい。

 

 

ゆずは安心しきったようにまた目を閉じた。

 

 

 

 

犬っていいな。

 

 

無条件で安心を与えてくれる人間の傍にいることができる。

 

 

 

 

あたしにもいたけど、

 

 

今はいない。

 

 

 

 

乃亜姉……

 

 

 

早く目を覚ましてよ。

 

 

 

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「ごめん。電話終わったよ」

 

 

神代が寝室から出てきた。

 

 

心なしか顔色が優れない。神代にとって電話の相手は朗報を届けてくれる相手ではなかったようだ。

 

 

「ん。いいよ。気にしてない」

 

 

誰?誰なの?

 

 

気にしてない振りをするのが精一杯だった。

 

 

何もなかったように振舞うのが、今はちょっと辛い。

 

 

 

 

何でかな……

 

 

 

 

あたしはイケメンコンテストの用紙を畳むと脇に避けた。

 

 

とてもじゃないけど、今はこんなことやってる気分じゃない。

 

 

「コ、コーヒーでも飲む?」

 

 

神代が気を使いながら、キッチンの方へ行こうとした。その行動は酷くぎこちない。

 

 

「いい。あたしシャワー浴びてくる。昨日、入れなかったから気持ち悪いんだ」

 

 

「……そっか。一人で大丈夫?」

 

 

「手伝ってくれるの?」あたしが意地悪く笑うと神代は目に見えて慌てた。

 

 

「や!それは!」

 

 

「分かってるって」

 

 

あまりの慌てぶりに思わず笑っちゃった。

 

 

 

 

何でもない振りして、心のわだかまりを隠して、あたしは必死に笑顔という仮面を取り繕っている。

 

 

前は何でもないことだったのに、

 

 

何でかな?

 

 

今はそれがひどく億劫だよ。

 

 

 

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シャワーを浴びるときにはずした包帯の下は防水の大きな絆創膏が貼ってあった。

 

 

保健医のやつ。案外まめだなぁ。

 

 

そんなことを考えながら、シャワーを浴びる。

 

 

バスルームはアイボリーホワイト一色で清潔そうだった。

 

 

きっとまめに掃除してるんだなぁ。

 

 

あたしはシャワーを浴びながら、掃除をする神代の姿を思い浮かべてちょっと笑った。

 

 

 

 

何か可愛い。

 

 

 

そう思ってはっとなった。

 

 

なに考えてるんだ、あたしは。

 

 

 

 

シャワーには思ったより時間がかかった。怪我した腕や肩をかばっての作業は酷く重鈍だ。

 

 

ガチャッとバスルームの扉を開けて顔を覗かせると、神代が目の前に立っていた。

 

 

ノックをしようとしていたのだろうか、握った拳が宙ぶらりんになっている。

 

 

「「わ!」」

 

 

二人の声が重なった。

 

 

神代は慌てて背中を向け、あたしはバスルームに引っ込んだ。

 

 

「あ、あんまり遅いから心配したんだ」

 

 

「遅いってどれぐらい入ってた?」

 

 

「一時間半ぐらい」

 

 

「え?心配かけてごめん」

 

 

そんなに経ってたのか。そりゃ心配するわな。

 

 

「いいよ。怪我した場所は大丈夫?」

 

 

「うん。慣れないから遅くなっちゃった。でも保健医がしっかり絆創膏してくれたおかげで傷も痛まなかったよ」

 

 

「そっか、じゃこれバスタオル。ここ置いておくから」

 

 

向こうを向いた神代の耳が真っ赤になってる。

 

 

神代はバスルームの脱衣かごの上にバスタオルを置いてほとんど逃げるように足早に去っていった。

 

 

 

 

 

び……くりした!

 

 

 

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着替えを済ませて、ついでにコンタクトからメガネに替え、バスタオルを首に巻いてリビングのドアを開けると神代はソファでタバコを吸っていた。

 

 

「シャワーありがと」

 

 

「うん……」と言いかけてちょっとあたしを見たのち、神代はびっくりしたように目を丸めた。

 

 

「何?あたし変?」

 

 

「ううん。メガネだからちょっとびっくりした……。鬼頭って目悪かったんだ」

 

 

「ああ、これ?」

 

 

あたしは赤い縁取りのメガネの端をちょっと持ち上げた。

 

 

「視力は両目とも0.1ないんだ。いかにも頭良さそうに見えない?」

 

 

わざとチャラけて言うと、神代はその冗談に乗ってこず

 

 

「そっか。メガネでも鬼頭は可愛いな」

 

 

 

 

は?可愛い?

 

 

 

 

言った本人も、気づいたのか、

 

 

「いや、深い意味はないよ。似合うってことっ」と慌てた。

 

 

 

あたしはメガネをとってタオルで顔を覆った。

 

 

額を拭く振りして、上気した顔を隠した。

 

 

 

風呂上りで、なのか。それとも神代に可愛いって言われたからなのか……

 

 

 

どちらか分からなかった。

 

 

 

 

 

あたし……変だ……

 

 

 

 

 

 

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その日の夜、神代はソファで眠った。

 

 

あたしは神代のベッドを使うことにした。

 

 

 

それがありがたかった。

 

 

一人になって色々考えたかったから。

 

 

 

 

 

そう、あたしがここに来た目的を忘れてはならない。

 

 

綿密に……いくつもいくつもトラップを張って、

 

 

 

いつかは神代を引きずり落とす。

 

 

 

 

寝室の窓から見える空には綺麗な形をした三日月がぽっかりと空に浮かんでいた。

 

 

綺麗な月……

 

 

月は輝く。真っ暗な道を照らす一筋の光のように。

 

 

でも月はそれ自体で輝くことはない。

 

 

悲しい星なのだ――

 

 

 

 

 

 

そんなことを考えながら眠ったからかな、当然ながら目覚めは最悪だった。

 

 

ケータイのアラームで無理やり起きると、あたしは這いずるようにリビングの扉を開けた。

 

 

リビングではすでに着替えを済ませた神代が新聞を片手にコーヒーを飲んでた。

 

 

「おはよ」

 

 

「鬼頭、おはよう。傷の具合はどうだ?」

 

 

「もうほとんど…今日は学校へ行っていい?」

 

 

「無理じゃなければいいよ」

 

 

神代はにっこり微笑んだ。

 

 

あたしはその笑顔から目を逸らした。

 

 

 

 

 

神代の笑顔に引きずり込まれる。

 

 

復讐心が揺らぐ。

 

 

だからだ―――

 

 

 

 

 

 

 

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―――――

 

―――

 

 

 

当然ながらあたしと神代は別々に学校へ行った。

 

 

一緒に登校なんてしたら、また新聞部に何を書かれるやら。

 

 

 

「鬼頭!」

 

 

校門の近くで梶の声が聞こえた。

 

 

遠くであたしを見つけたのだろう、梶は随分長い間走ってきたようだ。

 

 

息が切れてる。

 

 

「鬼頭、もう登校して大丈夫なのかよ」

 

 

「うん。まだ抜糸はしてないけど、もう傷も痛くないよ」

 

 

「そっか。良かったぁ」

 

 

梶は心の底から安心したように、強張った肩の力をふっと抜いた。

 

 

「心配かけてごめんね」

 

 

「や!鬼頭が謝ることなんてねーから」梶は両手をあげて、軽く制した。

 

 

梶はちょっと背をかがめるとあたしの顔をまじまじと見てきた。

 

 

「な……なに?」

 

 

「いや。やっぱ鬼頭の顔を一日でも見ねえと俺だめだわ」

 

 

 

 

は?

 

 

 

「何言ってんの。こんなところで」

 

 

あたしは顔を赤くして逸らした。

 

 

周りには同じように登校してくる生徒でいっぱいだし。誰かに聞かれた恥ずかしいよ。

 

 

 

「へへっ。でもマジで良かった~」

 

 

梶の嬉しそうな顔が眩しいぐらいだよ。

 

 

 

あたしはちょっと目を細めた。

 

 

 

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教室に入ると、朝礼前の賑わっていた室内が一気にしんと静まり返った。

 

 

「鬼頭さんだ。よく来れるよね」

 

 

「でもあれは鬼頭のせいじゃないだろ?三年の先輩に絡まれたって」

 

 

「でも応戦したんでしょ?普通やらないよね」

 

 

ひそひそと噂話があちこちで聞こえる。

 

 

あたしは気にしない振りして、鞄を机に乱暴に置いた。

 

 

みんながびっくりしたように目をぱちぱちさせてる。

 

 

 

 

 

平気。

 

 

 

気にしない。

 

 

気にしてたら、復讐することなんて考えてられない。

 

 

こんなことで悩んでいたら前に進めない。

 

 

 

 

「鬼頭!気にするな」

 

 

あたしの頭を梶が軽くはたいた。

 

 

「別に……気にしてないよ」

 

 

ちょっと可愛げなかったかな?でも事実そうだもん。

 

 

梶は「へへっ!そうだよな」と軽く笑っただけだった。

 

 

 

 

 

梶は知らない。

 

 

あたしを突き動かすものが何か、なんて。

 

 

 

でも知らないほうがいい。

 

 

 

ホントのあたしを知ったら、梶はきっと幻滅する。

 

 

別に幻滅されるのが嫌だとかそういうのじゃない。

 

 

 

人間には誰でも激しい恋と同じように、同じだけ激しい憎悪の気持ちを抱けることを、彼にはまだ知ってほしくないだけ。

 

 

 

 

 

 

 

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今日一日神代と顔を合わせることはあっても、視線を合わせることはなかった。

 

 

前にもあったよね。こんなこと。

 

 

だけど、今日の神代は必死にあたしの方を見ないようにしてるって感じだ。

 

 

まぁあんなことあった後だもん。無理もないよね。

 

 

そんなわけで今日一日は無事(?)終わることができた。

 

 

 

 

帰り支度をしていると、

 

 

「鬼頭。一緒に帰ろうぜ」と梶が声を掛けてきた。

 

 

あたしは筆記具なんかを鞄に仕舞いいれながら、

 

 

「ごめん。今日病院行かなきゃなんだ」と断った。

 

 

「病院?」

 

 

「ほら、傷の消毒に行かなきゃ」

 

 

制服の下に隠れてる傷跡を指し示すと、梶は「ああ」と頷き

 

 

「そっか。じゃぁ病院まで送るよ」なんて言い出した。

 

 

あたしは教科書を鞄に入れていた手をちょっと休めた。

 

 

「いいよ。恥ずかしいし」

 

 

梶は真っ赤になって頭を掻いた。

 

 

「そっか、そうだよな。わりっ!じゃ、また明日な」

 

 

 

 

何だかなぁ。

 

 

あたしは梶にどう接していいのか分かんなかった。いつもどおり、な筈なのに。

 

 

ちょっと冷たかったかな、とか、傷ついたかなとか考えるようになってる。

 

 

結局告白の返事も先延ばしにしてるし。

 

 

辛いだろうに、でも梶はめげずにいつもどおり接してくる。

 

 

 

悪い奴じゃないんだよね。むしろ優しい。

 

 

でも……

 

 

あたしは梶に恋してない。

 

 

 

 

そもそもあたしに恋なんてできるのだろうか。

 

 

 

好きになったら負け。

 

 

恋愛なんて所詮はゲームじゃん。そう思ってたのに、何でかな、最近は何故かその言葉がしっくりとこない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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病院―――と言っても、あたしが運ばれた病院じゃなくて、乃亜姉の眠っている国立病院にあたしは来ていた。

 

 

乃亜姉……変わりないかな?

 

 

 

 

乃亜はたぶん……もう目覚めることがない。

 

 

分かりきってる筈なのに、あたしは心のどこかで奇跡が起こるのを期待している。

 

 

乃亜が目覚めたら、あたしのしようとしてること、止めてくれるかな?

 

 

 

 

 

あたしは……

 

 

乃亜姉に止めて欲しいのだろうか。

 

 

 

 

そんな考えを打ち消すように首をぶんぶん振っていると、いつの間にか乃亜姉の眠っている個室に着いた。

 

 

白い無機質な扉がわずかに開いていて、中から男の声がする。

 

 

 

 

 

「乃亜……目覚めてくれよ……」

 

 

 

明良兄の声だった。

 

 

 

 

 

 

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あたしは病室に足を踏み入れることなく、そっと室内の様子を伺った。

 

 

明良兄はこちらに背を向けて椅子に腰掛けてる。

 

 

乃亜姉の白い手を懸命に握って、明良兄の額の辺りに持ってきていた。

 

 

その広い背中が僅かに震えていた。

 

 

 

 

 

明良兄……

 

 

 

泣いてる……?

 

 

 

 

 

あたしは室内に入るのを躊躇った。

 

 

いつでも自信に満ち溢れてて、いい意味でも悪い意味でもまっすぐな明良兄が。

 

 

泣いてた。

 

 

声を押し殺して。

 

 

 

 

あたしの前では泣いたことなんて一度もなかったのに。

 

 

乃亜姉が自殺未遂をしたときでも、そうだ。

 

 

なのに今、明良兄は誰にも気づかれないようひっそりと涙を流してる。

 

 

 

 

 

まるで乃亜姉だけに、許された涙のようだった。

 

 

 

 

 

今は兄妹二人きりにしてあげよう。

 

 

たとえ血が繋がっていなくても、あなたたちは強い絆で結ばれてる。

 

 

そう思った矢先のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「あら。楠さん……の妹さん?どうしたの?こんなところで」

 

 

カルテを持った女性看護士さんに声を掛けられた。そして看護士さんはあたしの行動を訝しむかのように病室の中をちょっと覗いて

 

 

「ああ、彼氏さん来てるから入り辛いわよね」と苦笑。

 

 

彼氏?

 

 

「ステキな彼氏よね、ああやって毎日楠さんのお見舞いに来るの。彼の愛が伝わって目覚めるといいのだけど」

 

 

どうやら看護士さんは明良兄のことを乃亜姉の彼氏だと思い込んでいるようだ。傍から見たらそう見えるのかな。

 

 

「いえ、二人は……」と言いかけたときだった。

 

 

「雅?」

 

 

明良兄が病室からひょっこり顔を出した。明良兄はもう泣いてはいなかった。

 

 

でも、目の淵がまだ赤い。

 

 

あたしはそのことに気づかない振りして

 

 

「明良兄…来てたんだ。あたしも今来たところ」と手を振った。

 

 

外から病室の様子を覗いていたことは黙っておこう。

 

 

「俺もちょっと前に来たとこ。あ、今から検温ですか?」と言い明良兄は看護士さんを見た。

 

 

「ええ。それと点滴を変えにね」看護士さんはちょっと笑った。

 

 

白衣の天使とは言えないまでも愛嬌のある看護士さんだ。

 

 

いるだけで場が和む。

 

 

「じゃ、お願いします。俺たちちょっと売店に行ってるんで」

 

 

明良兄は何か言おうとしていたあたしを無理やり引っ張って廊下を歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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売店の前には長椅子がたくさん並べてある。

 

 

売店でコーヒーを買うと、あたしたちはその椅子に並んで腰掛けた。

 

 

「どう?怪我の具合は?」

 

 

ちょっと疲れた表情を滲ませながら、明良兄がやんわりと聞いてきた。

 

 

「うん。今は大丈夫」

 

 

あたしも曖昧に笑みを返した。

 

 

「神代の家では?何もないか?」

 

 

何もされてないか?と聞きたいのだろう。言葉の裏に隠れた意味を感じ取った。

 

 

「今のところは」

 

 

あたしは缶コーヒーを両手で包むと、手のひらを温めるように強く握った。

 

 

「……そっか。ごめんな、力になれなくて。

 

 

お前にいつも危険な目に遭わせて。兄貴失格だな」

 

 

明良兄は自嘲じみた笑みを漏らした。

 

 

「そんなことない。あたしにとって明良兄は最高のお兄ちゃんだよ」

 

 

あたしは微笑んだ。

 

 

明良兄もこの状況に参ってるって分かったから、元気づける為に。

 

 

 

 

「お兄ちゃん……か」

 

 

 

だけど明良兄は一言ぽつりと漏らしただけだった。

 

 

 

 

 

 

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「そう言えば、お前最近乃亜の見舞いに来た?」

 

 

明良兄がふと思い出したように顔を上げた。

 

 

「ちょっと前に来たよ。何で?」

 

 

「いや、白いチューリップが飾ってあったから、雅かな?って思って」

 

 

 

 

「チューリップ?あたし知らない」

 

 

あたしは目をしばたたかせた。

 

 

「じゃ、誰かな?うちの親じゃねーし。乃亜の友達かな?」

 

 

明良兄は首を傾けて考え込んだ。

 

 

「いいじゃない。誰が持って来ようが」

 

 

なんてあたしは軽く流したけど、心の中では僅かな引っかかりがあった。

 

 

 

 

 

チューリップの花言葉は“愛”

 

 

だけど白のチューリップには―――

 

 

 

 

 

“失われた愛”って意味合いがある。

 

 

 

送った人物が誰かなんて分からない。もちろんその人物が何を思って白いチューリップを持ってきたかなんて分からない。

 

 

 

だけどそんな意味を持つ花を贈るなんて……

 

 

一体誰―――?

 

 

 

 

 

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