TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後5時のDVD


 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

エマさんが立ち去っていってしばらく僕は一人でコーヒーを飲んだ。

 

 

コーヒーはすっかり冷めてまずくなっていた。

 

 

コーヒーを飲み干すと僕は伝票を手に席を立った。

 

 

エマさんが置いていった500円玉の感触は妙に冷たく感じた。

 

 

彼女の感情を現しているようで、いたたまれない。

 

 

いや、僕が彼女に抱く感情かもしれない。

 

 

何だか妙に心が冷え切っていた。

 

 

何をする気もなく、何も考えたくなかった。

 

 

 

どこへ行くとか考えてなかったけど、駅前の大きなレンタルビデオショップがふいに視界に飛び込んできた。

 

 

こんなときは、“あれ”しかないな。

 

 

僕はふらりとレンタルビデオショップに向かった。

 

 

 

 

マンションに帰ると、いつもは走って出迎えてくれるゆずが今日は出迎えてくれなかった。

 

 

鳴き声もしない。

 

 

ゆずにまで嫌われたかと、しんみりした面持ちでリビングの扉を開けると、

 

 

毛足の長いラグの上で鬼頭が倒れるように眠っていた。

 

 

鬼頭……帰ってたのか。

 

 

ゆずも鬼頭の腕の中で心地良さそうに寝息を立てている。

 

 

 

どうりで走ってこないと思った。

 

 

最近ではゆずは僕より鬼頭の方になついている。餌をやったり散歩に行かせたりしてるのは僕なのに。

 

 

 

鬼頭は長い足を投げ出して、うつぶせになって眠っていた。

 

 

長い髪はほどいてあって、ラグの上に美しい滝のように流れていた。

 

 

 

綺麗だった。

 

 

僕の知るどんな女の人よりも、その美しさが際立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.307


 

 

僕は鬼頭のもとに屈みこんだ。

 

 

「鬼頭…こんなとこで寝てちゃ風邪引くよ」

 

 

控えめに声をかけたけど、目を開けたのは鬼頭ではなく、ゆずだった。

 

 

「鬼頭」

 

 

思い切って、華奢な肩に触れて軽く揺さぶる。

 

 

「……ん~」小さく身じろぎをして鬼頭が目を開ける。

 

 

「先生?おかえり~」

 

 

寝起きだからだろうか、いつもより声や表情が甘い。

 

 

ドキリとする、というよりも何故かほっと安心した。

 

 

「今何時ぃ?」むくっと起き上がって両手で口元を覆った。

 

 

どうやら欠伸をしているようだ。目尻に涙が溜まっている。

 

 

「4時ちょっと過ぎかな」僕は腕時計を見た。

 

 

「もうそんな時間?夕飯の支度しなきゃ」

 

 

「簡単に鍋でもしよう。野菜いっぱい入れて」

 

 

僕が目を伏せて口元だけでちょっと笑うと、鬼頭の手が僕の前髪に伸びてきた。

 

 

触れるか、触れないか際どいところだ。

 

 

僕は顔をあげた。

 

 

 

鬼頭は瞬きもせずにじっとこちらをまっすぐに見てくる。

 

 

 

 

 

 

「先生。何かあった?」

 

 

 

 

 

 

 

P.308


 

 

「べ……別に。何も……何で?」

 

 

「ん。ちょっとそんな気がしただけ。疲れてそうに見えたからかな」

 

 

鬼頭は鋭い。それにちょっとドキリとする。

 

 

「まぁ、ちょっと疲れてはいるけど、何もないよ」

 

 

僕は何事もなかったかのように平然と答えた。

 

 

「そ。それならいいけど」

 

 

「うん」短く答えて僕は立ち上がろうとした。

 

 

床についた僕の手に鬼頭の手が重なった。

 

 

ひんやりと冷たい感触だ。

 

 

 

 

「先生……、あたしの手を握って?」

 

 

 

鬼頭が僅かに目を伏せて、小さな声で言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.309


 

 

「どうしたんだよ?」

 

 

僕は思わず苦笑いをした。

 

 

「いいから……。握って?」

 

 

何かあったのは鬼頭の方なんじゃないか。

 

 

表情にどことなく覇気がない。疲れている、というよりも何か怖いものから逃げ出したいというような顔だ。

 

 

僕はそっと鬼頭の手を握り返した。

 

 

細い指。力を入れたら折れてしまいそうな。

 

 

 

「ありがと。先生の手ってすっごく安心する。あったかい」

 

 

鬼頭は目を伏せたままほんのちょっと笑った。

 

 

その表情が心から安心した、と語っていた。

 

 

 

 

 

僕も同じことを考えてた。

 

 

「僕も鬼頭といると安心する」

 

 

触れた指先から、鬼頭のぬくもりを感じる。

 

 

 

そこから一くくりでは現せない愛情が伝わってきた気がした。

 

 

 

 

 

 

P.310


 

 

「DVD?何借りきたの?」

 

 

鬼頭は僕の足元に置いたレンタルビデオショップの袋を見た。

 

 

何だか名残惜しい気がしたが、僕は手を離した。

 

 

「これ?借りてきたんだ。気が滅入ってるときにはこれに限る」

 

 

「エロDVD?」鬼頭が白い歯を見せてふふっと笑った。

 

 

「まさか。ホラー映画だよ。一緒に見る?」

 

 

「ホラー映画?先生が?そういうのダメそうなのに」

 

 

「好きだよ。新作が出てたからつい借りちゃった」

 

 

「一緒に見る」鬼頭は目だけを上げて僕を見た。

 

 

それがとても可愛らしかった。

 

 

 

 

 

くしゅん、と鬼頭が小さくくしゃみをした。

 

 

「そんなとこで寝るからだよ。女の子は体を冷やしちゃだめだよ。先にシャワー浴びてあったまっておいで」

 

 

僕は思わず苦笑した。

 

 

「見るの待っててくれる?」

 

 

「ん。待ってるから行っておいで」

 

 

「わかった」

 

 

鬼頭は頷くと立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

P.311


 

 

それから40分ぐらい経って鬼頭はバスルームから上がってきた。

 

 

上気したピンク色の頬から湯気があがっている。

 

 

首からタオルをかけて鬼頭は顔を拭っている。

 

 

「先生の使ってるシャンプーっていい香りするね。見たことないパッケージだったけど」

 

 

「あぁ、あれね。アメリカにいる姉貴が送って来るんだよ。外国製のだよ」

 

 

鬼頭は顔を拭く手を止めた。

 

 

「お姉さん?二人きょうだい?」

 

 

「うん、そうだよ」

 

 

「へぇ意外。一人っ子だと勝手に想像してた」

 

 

「なんだよ、それ」僕はちょっと笑った。「鬼頭のとこは?きょうだいいる?」

 

 

「あたしは……」と言って鬼頭はちょっと言葉を詰まらせた。

 

 

何か言いたくなさそうな、それ以上は聞いて欲しくなさそうな、複雑な表情だった。

 

 

僕は鬼頭の担任だから身上書という名の調査票を見たことがない。でももしかしたら複雑な家庭環境かもしれない。生き別れたきょうだいが居るかもしれないし。

 

 

 

僕は場を和ませようと、わざと明るい口調で口を開いた。

 

 

「昔はよく姉貴に苛められたな。顔を合わせると未だにこき使われる」

 

 

「あぁそれっぽい」

 

 

鬼頭も笑った。タオルを首から抜き取って僕の隣に腰掛ける。

 

 

「そう言えばあたし先生のことよく知らなかった」

 

 

今更のように鬼頭が呟いた。

 

 

「僕だって鬼頭のことあまり知らないよ。君は何だか秘密が多そうで―――ミステリアスだ」

 

 

僕の言葉に鬼頭はちょっと笑って、流れるような視線で目をあげた。

 

 

「一つ一つ知っていくのが恋愛の醍醐味じゃない?って言っても、先生はあたしに恋愛感情なんてないけど」

 

 

鬼頭には―――

 

 

 

恋愛感情を抱いていない……

 

 

 

ってはっきり言えるのだろうか。

 

 

僕はまだ自分の知らないところで彼女に惹かれている部分がある。

 

 

 

気づいているはずなのに、僕はその感情に背を向けてる。

 

 

 

それは僕がまこに抱く感情とはまた違う種類のものだ。

 

 

 

きっと―――

 

 

 

 

P.312


 

 

「DVD見る?」

 

 

僕は話題を変えてDVDデッキのリモコンを手にした。

 

 

「うん」鬼頭も僕の行動に特別不信感を抱いたり、気分を害したりしてないようだ。

 

 

再生機能を押して、DVDを再生した。

 

 

 

 

 

 

―――

 

 

暗くした部屋で、テレビの明かりだけが青白く浮かんでる。

 

 

画面に映るのは、飛び散る血や鈍い光を放つナイフの先だ。

 

 

連続殺人鬼のホラー映画。

 

 

鬼頭は怖いのか、画面から目を逸らして僕の隣でさっきからずっと僕のシャツをずっと握って身を寄せてる。

 

 

怖いのが苦手なのかな。意外だ。平気だと思ってたのに。

 

 

恐いなら他ごとをしてれいればいいのに。

 

 

何故か鬼頭は一緒に見たがった。

 

 

こんなんなら恋愛映画を借りてくれば良かったかな。なんて考えてちらりと鬼頭を見た。

 

 

鬼頭は顔を青くして眉を寄せている。

 

 

スウェットのしっかりあがりきっていないジッパーから鬼頭の白い胸元がちらりと見えた。

 

 

「わっ」とか「あぁ」とか小さく声を漏らす度に胸が当たってるんですけど。

 

 

僕はそれから目を逸らした。

 

 

 

 

何でかな?僕が好きなのはまこなのに。

 

 

エマさんに酷いことをして彼女を傷つけたばかりなのに。

 

 

不謹慎だな。僕の素直な男の気持ちが体の外に出ようとしている。

 

 

エマさんのときのように、何となく流されてとか、自暴自棄になってたから、とかじゃない。

 

 

アルコールも入ってるわけじゃないし。

 

 

 

 

ただ、どうしようもなく鬼頭の肌に触れたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

P.313


 

 

映画も半ばまで行くと、鬼頭は唐突に

 

 

「ちょっと止めて」と言い、立ち上がった。

 

 

僕は言われたとおり、一時停止のボタンを押す。

 

 

廊下に向かおうとする鬼頭に、

 

 

「トイレ?」と聞いた。

 

 

「違うよ。ドキドキしすぎて、喉渇いちゃったの」鬼頭は唇を尖らせている。

 

 

鬼頭はすぐに500mlのミネラルウォーターを手に帰ってきた。

 

 

ペットボトルに直に口つけて、おいしそうに水を飲んだ。

 

 

白い喉元が上下するのを見て、それがすごく色っぽいと思った。

 

 

こんなこと考えるなんて。

 

 

慌てて目を逸らし、

 

 

「でも意外だ。鬼頭にも苦手なものがあるんだね」と会話も逸らした。

 

 

「そりゃそうだ。だって人間だもん」鬼頭はちょっと肩をすくめて見せる。

 

 

「でもホラー映画は苦手じゃないよ。怖いもの見たさってやつ」

 

 

「先生は、ある?苦手なもの」

 

 

「姉貴」僕はため息を吐きながら即答した。

 

 

鬼頭は声をあげて笑った。

 

 

 

 

そう言えば鬼頭は前に比べてよく笑うようになった。

 

 

笑うだけじゃない。ちょっと拗ねたり、怒ったり、随分とこれぐらいの年頃の少女が持つ当たり前の表情をするようになった。

 

 

 

前は……

 

 

 

周りのものを全て遮断するような、人を寄せ付けないところがあったから。

 

 

 

 

 

 

P.314


 

 

物の考え方とか、表情とか。

 

 

大人の女のような反応を見せる鬼頭に、最初は戸惑った。

 

 

いつも見透かされているようで、最初はとっつきにくかった。

 

 

でも今は違う。

 

 

鬼頭と、ちゃんと向き合える気がするんだ。

 

 

それは鬼頭が変わったからなのか、それとも僕の彼女を見る目が変わったのか。

 

 

どっちだろう―――

 

 

 

 

鬼頭が水を飲み終えるのを待って、僕は再びDVDを再生した。

 

 

再生するとやっぱり鬼頭は怖そうにしがみついてきて、

 

 

衣服にまとったタンドゥルプアゾンがその度に心地よく香ってくる。

 

 

 

 

 

でも僕は忘れていた。

 

 

 

 

 

 

それが「毒」の異名を持つことを―――

 

 

 

 

 

 

 

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