TENDRE POISON 

~優しい毒~

『はじまりの予感』

◆午後5時の雨◆


 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

半年間、神代の助手―――

 

 

 

 

テストを白紙で出して、神代はどう出るかと思ってたけど、まさかこんな風に来るとはね。

 

 

 

 

あたしは昇降口で雨空を見上げた。

 

 

雨は一向に止みそうにもない。

 

 

午後五時。生徒たちは下校して、周りには誰もいない。屋外部活動組も体育館に避難しているだろう。

 

 

静かだった。とても……

 

 

 

 

この世界の静寂を集めたような、そんな静けさだった。

 

 

 

 

 

「てか、傘持ってないし……」

 

 

どうしよう、と考えてると遠くから声がした。

 

 

 

 

 

「鬼頭!」

 

 

 

 

神代だった。

 

 

 

 

P.20


 

 

あたしは振り返った。

 

 

神代は手にビニール傘を持っている。

 

 

 

 

走ってあたしの下に来ると、

 

 

「これ。持っていきなさい」と傘をずいと差し出してきた。

 

 

「え?いいよ、そんなの」

 

 

「いいって、どうやって帰るの?傘持ってきてないんでしょう?だからそんな所で佇んでるんでしょう?」

 

 

あたしが何て答えようか考えてると、

 

 

 

 

「持っていきなさい。女の子は体を冷やしちゃいけない」

 

 

 

とにっこり微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

あ……今。笑った……

 

 

 

ちょっと……可愛いかも。しかも、あたしなんかの為にわざわざ走ってきて。

 

 

優しいのかな?

 

 

 

 

 

いやいや、相手は神代だよ。

 

 

これがこいつの手かもしれない。気を許した笑顔を向けてきて、こっちが『特別』になった気分にさせる―――

 

 

 

 

 

 

あたしは乃亜のようにはならない。

 

 

 

あたしは神代のことを好きになんてならない。

 

 

 

 

P.21


 

 

「先生はどうするの?」あたしは聞いた。

 

 

まだ傘は受け取ってない。

 

 

「車だから大丈夫。いつ降られてもいいように、その傘は常に車の中に入れてあるんだ。気にせず使って?」

 

 

「そう……じゃぁ大丈夫ですね」

 

 

あたしは神代の手から傘を受け取った。

 

 

 

 

 

 

「何?僕のこと心配してくれるんだね。優しいね、君は」

 

 

 

 

 

 

 

 

え―――?

 

 

 

 

いや、それは当然でしょ。ヒトとして。

 

 

 

でも……

 

 

 

心がちょっと軽くなる。

 

 

 

重いものばかり背負ってきがしてたから、今ちょっと楽になったかも。

 

 

 

 

 

「ありがと」

 

 

 

 

あたしは笑った。

 

 

初めて神代に見せる笑顔だった。

 

 

 

 

P.22


 

 

 

午後5時―――

 

 

あたしは神代に借りた傘を持って、家の近くにある国立病院を訪れた。

 

 

この病院には……

 

 

 

 

乃亜が眠ってる―――

 

 

 

 

 

 

「乃亜姉、来たよ」

 

 

あたしは乃亜姉の白い寝顔に語りかけた。

 

 

乃亜姉の瞳は固く閉じられ、口元には酸素吸入マスクがかぶせられている。

 

 

やせ細った白い腕には点滴が刺さっていて、それが痛々しい。

 

 

 

 

パイプ椅子を引き寄せると、乃亜姉のベッドの脇に腰を下ろした。

 

 

「今日はね、乃亜にお土産持ってきたんだ」

 

 

無言の乃亜姉に向かってあたしは語りかける。

 

 

当然ながら返事はない。

 

 

 

 

 

 

あたしはベッドの脇にそっと神代から借りた傘を置いて無言で去った。

 

 

 

 

P.23


 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

僕は職員室に戻ると、鬼頭の過去の成績表を眺めた。

 

 

開いて僕は目を剥く。

 

 

テストでは毎回学年一位。

 

 

それも毎回満点に近い点数だった。

 

 

現に僕の作ったテストも毎回高得点をあげている。

 

 

授業態度も悪くなく、他の先生たちからの受けもまあまあだった。

 

 

と言うより、可もなく不可もなく。悪い意味でも良い意味でも目立つ行動をする生徒ではない。

 

 

 

 

 

 

『お前何か恨まれるようなことしたんじゃねぇの?』

 

 

 

まこの言葉がよみがえる。

 

 

 

 

そうかもしれない。

 

 

自分では、他の生徒と分け隔てなく接してきたつもりだったけど、どこか気に食わないことがあったのかもしれない……

 

 

 

 

「神代せーんせ♪」

 

 

 

 

 

ふいに名前を呼ばれ、タバコの箱が僕の手元に置かれた。

 

 

顔をあげるとまこが立っていた。

 

 

「ちょっと付き合ってくんない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

P.24


 

 

僕たちは職員室の角で唯一喫煙ブースになっている一角へ移動した。昔は・・・それこそ何十年と前では職員室の自分のデスクでタバコを吹かせることなど特別な光景じゃなかったのに、最近はどこもかしこも禁煙ブームときている。愛煙者には肩身が狭い。

 

 

今は喫煙ブースに僕らしかいない。

 

 

職員室自体も、部活動の顧問をやってる先生たちが多いせいか閑散としていた。

 

 

 

 

 

 

「白紙の答案用紙の問題は解決した?」

 

 

タバコを取り出しながら、まこは聞いた。

 

 

「ん。まだ……」

 

 

僕もジャケットの胸ポケットから一本取り出すと、口にくわえる。

 

 

 

 

「あんま考え込むなよ。お前の悪い癖だ」

 

 

まこはそう言ってタバコに火を灯した。

 

 

「分かってるけど……」

 

 

僕は乱暴にライターを押したが、火は着火しなかった。

 

 

2度3度とカチカチ押すが、炎は出てこない。

 

 

ライターまで、僕を拒んでいるように思えた。

 

 

 

 

 

「分かってないよ」

 

 

ふいにまこが口を開いた。少し苛々したような荒い口調だった。

 

 

そして、僕の顔をぐいと両側から挟みこむ。

 

 

そのまま顔を引き寄せられた。

 

 

 

 

 

 

 

僕の心臓が、どきりと派手な音を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

P.25


 

 

「分かってない……」

 

 

まこは自分のタバコの先を僕のタバコの先にくっつけた。

 

 

 

 

いや、分かってないのは、

 

 

まこの方だ。

 

 

 

 

僕がくわえたタバコの先が赤く色づく。

 

 

 

 

 

「あ、ありがとう……」

 

 

僕は顔を背けた。

 

 

 

 

「お前、今度楠 乃亜みたいな生徒と関わると、今度はお前が崩壊するぞ」

 

 

まこは至極真剣な口調で言った。

 

 

突き刺さるような言葉だ。

 

 

 

 

 

実際壊れかけた。

 

 

まこは、僕のせいじゃないと言う。

 

 

だけど、僕は自分のせいじゃないと言って逃げることができない。

 

 

楠が何かに悩んでいたのなら、僕は彼女の言葉に耳を傾け真剣に話を聞いてやることができたはずなんだ。

 

 

彼女は絶対に許されない恋をしていると言っていた。

 

 

 

 

 

彼女に言ってやるべきだった……

 

 

 

 

それは僕も同じだよ。

 

 

 

 

 

 

僕は親友の林 誠人が―――

 

 

 

 

 

 

好きなんだ……

 

 

 

 

 

 

 

P.26


 

 

僕は男が好きというわけじゃない。

 

 

実際今まで付き合ってきた子たちはみんな女の子だった。

 

 

 

 

まこのことは……

 

 

はっきりと気持ちに気づいたのは、この高校に教師として就任して間もなくの頃だった。

 

 

気づいたら好きになってた。

 

 

 

 

 

 

 

目が彼を追ってしまう。

 

 

彼の全てを知りたくて、質問攻めになってしまう。

 

 

彼と同じ空気にいたい。

 

 

 

 

 

欲望は果てしない―――

 

 

 

 

「雨……最近よく降るな。俺、今日歩きなんだわ。お前置き傘持ってない?」

 

 

煙を吐き出しながら、まこは言った。

 

 

「置き傘なら、車に積んだのが……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アリガト。

 

 

 

 

 

ふいに鬼頭の笑顔を思い出す。

 

 

 

P.27


 

 

 

太陽みたいな笑顔。

 

 

屈託なく。少女らしい可憐な笑顔。

 

 

確かにあのとき鬼頭は

 

 

 

笑ったんだ。

 

 

 

初めて見せる、心からの笑いだった・・・・・・ように思える。

 

 

 

 

 

「ごめん。傘人に貸してるんだった。僕、まこを送っていくよ」

 

 

「マジで?助かる」

 

 

まこが笑う。白い歯を見せて。

 

 

 

 

 

 

鬼頭の笑顔はこぼれるような笑顔だ。

 

 

まこの笑顔はほんわかする笑顔だ。

 

 

 

 

 

雨に感謝だな―――

 

 

 

 

 

今日の僕は二人の笑顔で少し元気が出たよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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