TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後6時の来訪者


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

ホラー映画のエンドロールが流れる。

 

 

あたしの知らない俳優のスペルがずらりと並んでいた。

 

 

神代は……

 

 

あたしの肩を枕代わりに瞳を閉じて、心地良さそうに眠っている。

 

 

映画が終わる30分ぐらい前から欠伸をかみ締めていたけど、10分前になるとうとうとと首を揺らし始めた。

 

 

映画の中で悲鳴が鳴り止まない緊迫した雰囲気なのに、どうしたらこの状況で寝られる...と神経を疑うよ。

 

 

エンディングが流れると、待ってましたとばかりにあたしの肩に寄りかかってきたのだ。

 

 

「先生、先生ってば。終わったよ」

 

 

神代を軽く揺すったけど、

 

 

「ん~?」と口の端で返事が返ってきただけだった。

 

 

こいつ。起きる気ないな。

 

 

 

ま。いっか。

 

 

気持ち良さそうで、ちょっと可愛い。

 

 

疲れてるんだね。寝かせてあげよう。

 

 

神代の柔らかい栗色の髪が、神代の使ってるシャンプーの香りが心地良い。

 

 

……今はもう少しこうしていたい。

 

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

 

ふいにインターホンが鳴った。

 

 

「…先生、誰か来たよ」

 

 

「ん~まこかなぁ?鬼頭、悪いけど開けてくれる?」

 

 

トロトロと眠そうなまぶたをこすりながら、神代があたしを見る。

 

 

「いいよ」

 

 

あたしは神代の頭を退けると、玄関に向かった。

 

 

 

 

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「はい」

 

 

あたしは相手が誰か確認することもなく扉を開けた。

 

 

ここに来る人間なんて保健医ぐらいだと思ったから。

 

 

だけど、玄関前に立っていたのは、びっくりしたように目を見開いた見知らぬ女だった。

 

 

白いコートにチョコレート色のマフラー。バッグもブーツもその色で統一してある。

 

 

神代と同じ年頃だろうか、上品で大人しそうな女だった。

 

 

嫌な予感がした。

 

 

 

「あ。あのここ…神代さんの家ですよね」

 

 

女がおずおずと聞いてきた。

 

 

「そうですけど」

 

 

「あの、あなた……そう言えばこの間カラオケにいた……」

 

 

カラオケ?

 

 

いつのことだろう。

 

 

でもそんなことどうでもいいや。

 

 

「彼に何の用ですか?」

 

 

「あなた水月くんの……何?」

 

 

女が眉を寄せて訝しげにあたしを見る。見ようによっちゃ睨んでいるようにも見えた。

 

 

「水月くんの、妹さん?」

 

 

水月くん……

 

 

馴れ馴れしい呼び方。

 

 

あんたこそあいつの何なのよ。

 

 

 

 

あたしは壁に背をもたれさせて、腕を組んだ。

 

 

「お兄ちゃんなら今寝てますけど」

 

 

あたしが答えると女は目に見えてほっと安堵した。

 

 

 

 

 

 

 

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「って言えば満足です?」

 

 

あたしがちょっと声を低める。

 

 

女は心配と、不安と、怒りを込めた複雑な表情を浮かべた。

 

 

「あなた、水月くんの何なの!」

 

 

「そっちこそ、何なんですか?」

 

 

「あたしは……」と女が言いかけたところで、

 

 

「鬼頭?誰だった?」と神代が廊下の奥でひょっこり顔を覗かせた。

 

 

 

 

それと同時に表情を凍らせた。まさに固まったという表現がぴったりだ。

 

 

「エマさん……」

 

 

あたしは女を見た。

 

 

“エマさん”―――

 

 

 

神代の着信に残ってた名前だ。

 

 

 

 

 

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「水月くんどういうこと?この子と一緒に住んでるの?」

 

 

エマさんが食いつかんばかりに勢い込んだ。

 

 

「いや、ちょっと事情があって預かってるだけなんだ」

 

 

神代がこちらに向かってくる。その足取りは重そうだった。

 

 

慎重に、慎重に……でないと踏み外すよ。踏み外したら最後、君はまっさかさまだ。

 

 

神代が歩いているの一本の頼りないロープに見えて、また誰かにそう言われている様だった。

 

 

「預かってるって……嘘!」

 

 

「嘘じゃないよ。落ち着いて」

 

 

「あたしをフったのも、この子がいるから?誠人くんを好きだって言ったのも嘘なんでしょ!?」

 

 

フった?

 

 

神代がエマさんを?

 

 

 

それに保健医を好きだってこと、エマさんに言ったんだ。

 

 

 

「ホントだよ。ね、だから落ち着いて」

 

 

神代は素行が悪い生徒を諭すような優しい物言いで手を上下させてる。

 

 

 

 

 

「……たのに……」

 

 

あまりにも小さな声だったから、最初は何を言ってるのか聞き取れなかった。

 

 

「え?」

 

 

あたしが問い返すと、エマさんはまるで諸悪の根源があたしにあるかのようにキっと目を吊り上げて、

 

 

 

「あたしと寝たくせに!」

 

 

と一言叫んだ。

 

 

 

 

 

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え―――?

 

 

寝た……?

 

 

それは文字通りSlept(寝た)ではなく、Got laid(セックスした)って意味?

 

 

 

 

あたしは理解ができないという目で神代をゆっくりと見上げた。

 

 

神代は、紙のように顔を蒼白にさせていた。

 

 

 

 

 

got laidの方か―――

 

 

 

 

 

あたしの中から、何かがすり抜けていく感触がした。

 

 

どんどん、どんどん今までに集めた何かが……

 

 

 

すくっても、すくっても指の隙間から零れ落ちる水のように。

 

 

とめどなく。

 

 

 

 

水―――

 

 

 

あたし……目から水を流している。

 

 

その雫があたしの口元に流れて、しょっぱい味を舌の先で感じる。

 

 

 

あたし……泣いてる……?

 

 

 

何で―――?

 

 

 

「鬼頭……」

 

 

神代があたしの肩に手を触れようとした。

 

 

だけどあたしはその手から逃れるように、すっと脇に退いた。

 

 

 

何が何だか分からなかった。ぐい、と強引に涙を拭うと

 

 

「痴話喧嘩なら中でやったら?誰か他の住民に見られるよ」と一言いい

 

 

あたしは神代の部屋を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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風呂から上がったままのスウェット姿で、財布を持ってきていない。

 

 

ケータイだけが上着のポケットに入っていた。

 

 

神代は逃げ出したあたしの背中に向かって

 

 

「鬼頭!」と大声をあげていたっけ。

 

 

よく覚えてないや。

 

 

 

 

 

さすがに12月の寒空の下だと、スウェット一枚は寒すぎる。

 

 

一旦強引に拭ったけれど、後から後から溢れてくる涙も風にあたってひんやりと冷たい。

 

 

それに冷たい風に当たって傷がずきずきと痛みだした。

 

 

 

あたしは人けのいない路地裏で膝を抱えて座り込んだ。

 

 

 

 

何で……?

 

 

何で、こんなにも悲しいのだろう。

 

 

何でこんなにも心が痛いのだろう。

 

 

この刺すような痛みは、階段の額縁で怪我したときよりもずっと……ずっと、

 

 

痛いよ。

 

 

 

 

 

何で―――

 

 

 

 

 

 

 

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『―――はい』

 

 

無愛想な声が電話に出た。

 

 

まさか出るとは思わなかったけど、思わず最初に電話しちゃった。

 

 

何かあるといけないから、って前に番号を聞いたきりになってた相手。

 

 

何でこいつにかけたんだろう。

 

 

いくらこのときのあたしが普通じゃなかったって、どうかしてた。

 

 

でも……

 

 

 

 

 

「せん……せ。たす……け……」

 

 

必死に助けを求めたのに、声にならなかった。

 

 

『鬼頭?どうした?泣いてるのか』

 

 

保健医の少し緊張した声が返ってきた。

 

 

「……っつ。……う」

 

 

声にならない嗚咽を漏らして、あたしは保健医に助けを求めていた。

 

 

 

 

 

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それから10分も経たない内に一台のシルバーのヴェルファイヤが狭い路地にキッと止まった。

 

 

中から保健医が降りてきた。

 

 

白いシャツに程よく色落ちしたジーンズ姿。

 

 

少し長めの髪はほんの少し湿っているようだった。

 

 

風呂あがりなのだろうか。

 

 

いつのも香水の香りに混じって爽やかな柑橘系の香りがした。

 

 

「ったく、何やってんだよ。お前は。水月と喧嘩でもしたのか?」

 

 

保健医は腕を組んでうずくまってるあたしを見下ろした。と思う。

 

 

あたしが顔を上げると、保健医はびっくりしたように目を見開いた。

 

 

 

 

 

「深刻そうだな。とりあえず乗れよ。水月の部屋出てきちまったんだろ?」

 

 

あたしは首を横に振った。

 

 

「神代……先生のところなんて帰らない」

 

 

「そんなこたぁわかってるよ。とりあえず俺ん家来い。そのままだと風邪引いちまう」

 

 

「先生の……家?」

 

 

「他にどこがある?お前一人を実家に帰すわけにゃいかんだろ」

 

 

このときの保健医は憎らしいほど頼りがいがあって、あたしは素直に頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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何で保健医なんかに助けを求めたんだろう。

 

 

たぶん消去法だと思うけど。

 

 

明良兄、には迂闊に近づけない。万が一外で一緒にいるところを見られたらそれこそ、今までの計画が水の泡だ。

 

 

梶……には、申し訳ないという気持ちが先立って、どうしても連絡できなかった。

 

 

だから、だ。

 

 

 

ううん。それだけじゃない。

 

 

何故こんなに胸が締め付けられて苦しいのか。何故こんなにも悲しいのか。

 

 

何故、涙が止まらないのか。

 

 

その答えを大人の保健医は全て解決してくれる、って思ったんだ。

 

 

 

 

―――

 

 

「ただいま」保健医はマンションの部屋の扉を開けると、大声で声を掛けた。

 

 

「おかえりなさい。生徒さん、大丈夫だった?」

 

 

中からひょっこり顔を出したのは、大人しそうな女の人だった。

 

 

「千夏、悪い。今日一日こいつ預かることになった。お前も居てくれね?」

 

 

「預かるって、どうしたの?」

 

 

千夏と呼ばれた女の人はびっくりしたように目を丸めている。

 

 

あたしだってびっくりだ。

 

 

千夏―――って呼んだ。

 

 

 

 

こいつの女?

 

 

 

 

 

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「はい、どぅぞ」

 

 

千夏さんは用意してくれたホットココアのマグカップをテーブルの上に置いた。

 

 

マグカップから湯気が立ってる。

 

 

「……すみません」あたしはマグカップで手のひらを暖めるように、両手で包んだ。

 

 

保健医はソファに座って、憎らしいほど長い脚を組んで腕を組んだ。

 

 

「で、何があった?」

 

 

「……」

 

 

あたしは無言で俯いてカップをぐっと握った。

 

 

温かい湯気のせいかな、また涙が出てくる。

 

 

「ちょっと誠人!もう少し優しい言い方できないの?」と千夏さん。

 

 

ちょっと地味目だけど優しい人だ。ふんわりした雰囲気がちょっと乃亜姉に似ている。乃亜みたいな華やかさには欠けるけれど。

 

 

 

保健医はため息を吐いた。

 

 

「俺が知ってる限りの水月は、女に酷いこと言ったりしたりして、泣かすような男じゃないよ」

 

 

「……知ってる」

 

 

指の先がじんわりとココアの熱気で温まってくる。

 

 

その温度が、ちょっと神代のぬくもりに似ていた。

 

 

あたしはマグカップをテーブルに置くと、体育座りをして膝に顔を埋めた。

 

 

 

 

 

「まぁ、言いたかないんなら、聞かないけど」

 

 

保健医がソファから降りて、あたしの横に来た。正確にはその気配を感じたと言っていいだろう。

 

 

 

保健医の大きな手が伸びてきて、思いのほかあたしの頭を優しく撫でる。

 

 

 

 

 

 

「お前、よっぽど水月のこと

 

 

 

 

好きなんだな」

 

 

 

 

 

 

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好き―――?

 

 

 

何言ってんの?あたし神代のことなんて―――好きじゃない。

 

 

心の声が保健医には聞こえたのだろうか。

 

 

保健医はいつもとは違う優しい声で、

 

 

 

 

 

「好きだから、泣くんだろ?」

 

 

 

と言った。

 

 

 

 

 

「好きだから、悲しいんだ。違うか?」

 

 

 

 

 

 

あたしが―――好き?神代を。

 

 

 

 

 

 

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でも保健医の言ってることは正しい気がする。

 

 

エマさんって言う女の人が現れて、あの人が神代と寝たって言った。

 

 

その場しのぎの嘘でもいいから「違うよ」って言って欲しかった。けれどあいつはそれを認めたんだ。

 

 

普段のあたしなら、そんなこと気にすることなんてなかった。

 

 

 

 

だけど、今はその事実がこんなにも……悲しい。

 

 

 

だって、神代は保健医が好きで、好きで好きで、その思いを伝えられないから苦しんでた。

 

 

だからあたしの演技とは言え告白だって断った。

 

 

なのに、あの女とは寝たの?

 

 

 

 

 

納得いかないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、ようやく分かった。

 

 

 

 

 

あたし……神代が好きなんだ。

 

 

 

 

初めて人を好きになったんだ。

 

 

 

 

 

 

だけどあいつは憎い仇。

 

 

 

 

 

 

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「まぁお前の好きってのも、錯覚だろうけど」

 

 

保健医のあたしの頭を撫でる手が止まった。

 

 

「ちょっと誠人!」千夏さんが咎めるように口を挟む。

 

 

「だってそうだろ?ずっと一緒にいりゃ、ちょっといいかもって思って勘違いしてるんだよ、お前は」

 

 

 

 

勘違い―――じゃない。

 

 

 

 

あたしは……優しいけど頼りなくて、間違ってることでも一生懸命で。こっちがアホらしく思うことにも決して背を向けない。

 

 

 

そんなあいつのことを―――いつの間にか好きになってたんだ。

 

 

 

一くくりに“恋”って言ってしまえばそれで全てが納得いく。

 

 

 

 

 

でも……

 

 

「先生何か勘違いしてます。あたし神代……先生のことなんて何とも思ってません」

 

 

 

この気持ちにふたを閉めなきゃ。

 

 

 

 

あふれ出しそうになる、この気持ちを止めなくては。

 

 

 

この感情に背を向けなければ、

 

 

 

 

 

復讐は終わらない。

 

 

 

 

 

 

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深夜―――

 

 

保健医は居間のソファで眠っている。

 

 

あたしは千夏さんと一緒に保健医のベッドに眠ることに。

 

 

千夏さんはあたしの隣ですぐに眠りについたけど、

 

 

あたしは眠ることができなかった。

 

 

 

 

起きだして、ベッドの端に腰掛ける。

 

 

窓に張られた木枠を月の光が照らし出し、青白い影をあたしに落としていた。

 

 

十字にめぐらせた木枠の影はまるで十字架のようにあたしに降り注ぐ。

 

 

 

 

 

 

罪を―――犯した。

 

 

 

あたしは乃亜を裏切った。

 

 

 

 

 

神様に咎められているようだ、と思った。

 

 

 

 

保健医は何であたしのことを簡単に見破ったんだろう。

 

 

たぶん、彼が大人で、彼自身も同じように辛い恋を乗り越えてきたから……だ。

 

 

 

 

 

あたしは手のひらをじっと見つめた。

 

 

 

 

「錯覚……だったら、どんなに良かっただろう」

 

 

でも月を見ると同じ名前を持つあの男の顔を否応にもなく思い出してしまう。

 

 

頭に浮かべては、それが消えないことを願っている自分がいる。

 

 

 

 

それでも

 

 

 

あたしはやらなくてはならない。

 

 

 

乃亜に誓ったんだから。

 

 

 

 

 

だから、この気持ちにふたをするの。

 

 

 

あたしのやろうとしてることがどんなに罪深いことでも、

 

 

 

 

 

神に誓ったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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