TENDRE POISON 

~優しい毒~

『はじまりの予感』

◆午後7時の沈黙◆


 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

「おっはよ!鬼頭」

 

 

下駄箱で靴を履き替えてると、後ろから梶の声が聞こえた。

 

 

梶はいつでも元気過ぎるほど元気だ。

 

 

それが今のあたしにはちょっとうざい。

 

 

昨日はあれから明良兄と口を利いてない。

 

 

部屋にこもったきり出なかったら、明良兄はいつの間にか居なくなっていた。

 

 

 

 

「おはよ」あたしは冷たく返事を返した。

 

 

「何だよ~、朝から暗いな。ちゃんと飯食ってきたか?」

 

 

食べてない。元々朝食は摂らない派だし。しかも昨日の晩御飯も殆ど食べなかった。

 

 

食欲なんてない。

 

 

 

 

 

あたしは靴箱の扉を乱暴に閉じた。

 

 

「何だよ、不機嫌?」

 

 

あたしは苛々してるのに、梶はちっともへこたれないであたしの周りをうろうろ。

 

 

不機嫌の源ではないけど、こうウロチョロされるとさすがにうざい。

 

 

 

 

 

「おはようございま~す神代先生♪」

 

 

女生徒の声が聞こえて、

 

 

「おはよう」とそれに答える声が聞こえた。

 

 

 

 

 

ここにも苛々の原因が……

 

 

 

 

 

 

 

 

P.36


 

 

「おはよう鬼頭。今日の放課後時間ある?」

 

 

神代はイラつくほどのさわやかな笑顔を浮かべてる。

 

 

「今日って何だよ!先生と何かあるんかよ」

 

 

神代の言葉に梶が食いついた。

 

 

 

 

 

「何か、って。ちょっと明日の授業の準備を手伝ってもらおうかと」

 

 

慌てて神代が答えてる。

 

 

「何で鬼頭にやらせるんだよ」

 

 

「何でって……」

 

 

神代は言いかけたが、あたしが被せるように、

 

 

「あたしが先生の手伝いをすることになったんだよ」と冷たく答えた。

 

 

 

 

「手伝いって何で……?」

 

 

梶がキョトンとしてる。

 

 

あたしは梶の質問を無視してくるりと背を向けた。

 

 

質問に答えるのも、説明するのも今は面倒だ。

 

 

 

 

 

「「鬼頭」」梶と神代の声が重なってあたしの背中を追ってくる。

 

 

 

 

今はすべてが面倒になっていた。

 

 

考えたくないのに、考えなければいけないことがたくさんあって頭がくらくらする。

 

 

 

 

 

P.37


 

 

 

 

くらくら……

 

 

視界がぐるぐる渦を巻いて、だんだんとフェードアウトしていく。

 

 

 

 

 

 

「「鬼頭!」」

 

 

 

二人の声が遠くで聞こえて、次の瞬間視界が真っ暗になった。

 

 

 

―――――――

 

――――

 

 

 

 

消毒液の匂いがする。

 

 

瓶の重なる音がしてあたしは目を覚ました。

 

 

 

 

「よ、起きたか?」

 

 

白衣を着た軽そうな男があたしを覗き込んでいて、あたしは思わず身を引いた。

 

 

 

「誰?」

 

 

「保健医に向かって誰とはないだろう?」

 

 

自称保健医は、さも心外だと言わんばかりにメガネをちょっと直した。

 

 

見るからに胡散臭いが、こいつがあたしの具合を診てくれたのは間違いないだろう。

 

 

 

 

 

「保健室の林先生だよ。知らないかな?」

 

 

隣からひょっこり神代が顔を出す。

 

 

保健室の先生……てことはここは保健室?

 

 

「何で先生が……?」

 

 

 

 

 

神代は細い眉をちょっと寄せると、

 

 

「君倒れたんだよ。貧血らしい」と言った。

 

 

 

 

 

 

 

P.38


 

先生が運んでくれたの?」

 

 

「いや、梶田が運んだ」

 

 

梶―――・・・・・・そう言えば真っ暗になる前、あいつの声を聞いた気がする・・・

 

 

神代はちょっと微笑むと、

 

 

「もう大丈夫そうだね」と言った。

 

 

もしかして……

 

 

ずっとついててくれたの?

 

 

 

 

あたしは神代の顔をじっと見る。

 

 

あたしより神代のほうが倒れそうな顔色してた。

 

 

 

 

「もう二限目だよ。先生には倒れたこと言っておくから、もう少し休んでなさい」

 

 

「いいよ。あたしはもう大丈夫」

 

 

 

 

そう言ってあたしは起き上がった。

 

 

 

まだ頭がぼうっとして重いけど、立てないこともない。

 

 

 

 

「無理するなよ」

 

 

林先生が腕を組んだ。

 

 

「平気です」一言言うとあたしはベッドを降りた。

 

 

 

 

無言で保健室を出て行こうとして、ふと足を止めた。

 

 

「そう言えば……お手伝い、放課後でしたよね」

 

 

くるりと振り返ると、

 

 

「手伝いはいいよ。今日はゆっくりと休みなさい」

 

 

神代は手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

「いえ。約束ですので」

 

 

 

無表情に言ってあたしは今度こそ背を向けた。

 

 

 

 

 

P.39


 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「ふぅん。あれが噂の鬼頭ね」

 

 

腕組みをしてまこが口を開いた。

 

 

「何かとっつきにくそうな生徒だ。何考えてるのかさっぱりわからん」

 

 

 

 

まこは不審そうに扉のほうを見ている。

 

 

「感情をあまり表に出さないんだよ。僕も行くよ」

 

 

そう言って扉のほうに向かった僕をまこが呼び止めた。

 

 

 

 

「水月、お前のほうが倒れそうな顔してる。お前こそ、少し休んでけ」

 

 

僕が顔色が悪いのは、昨日さんざんまこのことを考えていたからだ。

 

 

 

 

「え……。休むってベッドで?」

 

 

「ほかにどこがあるんだよ」

 

 

まこはふんと鼻を鳴らした。

 

 

 

 

 

「いや、でも……」

 

 

「聞きたいこともたくさんあるしさ。どうせ次は授業がないんだろ?」

 

 

 

 

 

 

聞きたいこと……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.40


 

 

「あの子から……昨日のお前と同じ香りがした」

 

 

僕をベッドに寝かせると、まこはベッドに椅子を引き寄せて腰掛けながら言った。

 

 

 

 

ぎくり、とした。

 

 

まこは少し怒ったように乱暴に頭を掻いた。

 

 

 

 

「あれほど首を突っ込むなと言ったはずだけど?」

 

 

「別に……突っ込んでなんかないよ」

 

 

「じゃあ、数学の準備ってどういうことだよ!どうしてそんなことあの子にやらせるんだよ」

 

 

 

 

まこは声を荒げた。

 

 

僕は思わずびくり肩を振るわせる。

 

 

 

 

「わり……つい……」

 

 

まこが俯く。

 

 

 

 

「でも、俺はお前が心配なんだよ。下手に首突っ込んでみろ。楠みたいになっちまったら……」

 

 

まこはそれ以上言わなかった。

 

 

その後に続く言葉はさんざん聞いた。

 

 

「まあ、あの子がそうなるとは到底思えないが」

 

 

 

 

 

「心配してくれるのはありがたいんだけど、僕は僕なりに彼女に向き合いたいんだ」

 

 

 

 

そう、これは楠にできなった僕の懺悔なんだ……

 

 

 

 

 

P.41


 

 

「俺がやめろって言っても聞かないよな。お前はこう見えて結構頑固だから」

 

 

まこが呆れたようにため息を吐く。

 

 

僕は布団を引き上げた。

 

 

まこが言っていることは分かる。心配してくれてるのも分かる。

 

 

 

 

 

 

でも……

 

 

そうじゃないかもしれないけど、鬼頭 雅の心に闇があるのなら、僕は救いたい。

 

 

こんなのエゴだとしか言いようがないけれど、これは僕のためでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

「TENDRE POISEN(タンドゥルプアゾン)……」

 

 

 

唐突にまこが口を開いた。

 

 

「え?」

 

 

僕は布団から顔を出した。

 

 

 

 

 

「……今思い出した。昔の女が使ってた香水だ」

 

 

 

 

 

 

 

「意味は

 

 

『優しい毒』

 

 

だ……

 

 

 

 

 

 

 

嫌な予感がする。お前気をつけろよ……」

 

 

 

 

 

 

 

P.42


 

 

 

―――――

 

 

 

 

 

優しい毒……

 

 

 

 

 

 

 

あの香りにそんな意味合いがあったなんて、知らなかった。

 

 

 

 

まこは気をつけろと忠告したけど、何に気をつければいいのかなんて分からない。

 

 

そもそも鬼頭が僕に何か危害を加えるとは思えない。

 

 

 

 

「先生」

 

 

数学準備室の扉が開いて、鬼頭がひょっこり顔を覗かせた。

 

 

相変わらず白い顔だったが、病的なものを感じない。

 

 

だいぶ良くなったようだ。

 

 

そのことにほっと安堵する。

 

 

 

 

「手伝いって何すればいいの?」

 

 

鬼頭は僕の向かい側に腰を下ろすと、鞄を机に置いた。

 

 

キーホルダーやマスコットが何もついていないそっけない学生鞄だった。

 

 

楠の鞄には大きなキティちゃんのぬいぐるみがついていたな、なんて思い出す。

 

 

 

 

そんな考えを振り払うように首を振ると、

 

 

「明日の宿題に使うプリントをまとめてほしいんだけど」と言った。

 

 

まるで言い訳するように。

 

 

 

 

「分かった」鬼頭は素直に頷くと、手を差し伸べた。

 

 

きれいな白い手だった。

 

 

 

 

 

気を付けろ―――

 

 

 

まこの言葉が頭をよぎる。

 

 

 

P.43


 

 

何種類もあるプリントの束をきれいにまとめてホチキスで止める。

 

 

簡単な作業だった。

 

 

パチン、パチンと機械的な音がするだけで、会話はない。

 

 

準備室はしんと静まり返っていた。

 

 

もともとあまり喋らない子なのだろう。

 

 

でも、こう沈黙が続くと正直息が詰まる。

 

 

 

 

 

「ねえ、今朝の……梶田とは仲がいいようだね。付き合ってるの?」

 

 

僕の質問に鬼頭は顔を歪めた。

 

 

「はぁ。ないない」

 

 

と、即座に否定。

 

 

「そっか……、仲良さそうだったのに」

 

 

「仲が良い?やめてよね。一方的に付き纏わられてるだけだって」

 

 

まるで切り捨てるように言うそのさまに僕はちょっとびっくりした。

 

 

鬼頭が唯一親しく(?)しているのが梶田のように思えたが……唯一心を許しているように見えたが……

 

 

梶田も見た目が少しヤンチャだが、二人並んだら結構お似合いな気がして、交際していてもおかしくないと思ってたけど。

 

 

それは単に梶田が鬼頭の冷たい態度にもめげずに纏わり付いていただけだったと言うことか。

 

 

再び沈黙……

 

 

 

 

 

「先生こそ、彼女いないの?」

 

 

ふいにホチキスの手を休めて鬼頭が聞いてきた。

 

 

まっすぐにこちらを見ている。

 

 

鬼頭はいつだってそうだ。

 

 

人を喋るときはまっすぐに目を見てくる。

 

 

 

 

 

黒い吸い込まれそうな目でまっすぐ。

 

 

 

まるで捕らえるように。

 

 

 

 

 

P.44


 

 

 

「彼女はいないよ」

 

 

僕は彼女の視線から逃れるように顔を背けて言った。

 

 

 

 

 

「なぁんだ。つまんない」

 

 

「つまんないって?」

 

 

「だって、こんなところで黙々と作業なんてつまんないじゃん。恋バナでもできればなぁと思ったんだけど」

 

 

恋バナ……

 

 

 

 

普通の女子高生らしいその発言に僕はいくらかほっとした。

 

 

 

 

 

「じゃあ好きな人はいるの?」僕は聞いてみた。

 

 

鬼頭はちょっと顔を上げると訝しげな目で僕を見た。

 

 

「何でそんなこと聞くの?」

 

 

 

 

僕は慌てて手を振った。

 

 

「いや、流れで……」

 

 

恋バナだし?

 

 

 

 

 

 

「流れ?」そう言って優雅に頬杖をつく。

 

 

彼女の仕草は何をとっても一つ一つ完成されたように、きれいだ。

 

 

 

「流れでそんなこと聞くの?

 

 

 

でもいいかも。そういう曖昧なの。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.45


 

 

鬼頭はちょっと微笑した。

 

 

大人の女が見せるちょっと色っぽい微笑だ。

 

 

ドキリ、とした。

 

 

 

 

 

「好きな人じゃなけど、気になってる人はいるかも」

 

 

「へぇ、学校の男子かい?」

 

 

 

 

鬼頭はちょっと目を細めると、

 

 

 

「ううん先生。

 

 

 

ガッコの先生」

 

 

 

と言って意味ありげにちょっと目配せする。

 

 

 

心臓が再び音を立てた。

 

 

 

「先生なんて、随分年上だね。でも

 

 

許させる関係じゃない。今のうちに考えを改めた方が……」

 

 

僕は曖昧に笑った。真剣に言っても良かったが、鬼頭がどこまで本気か分からないし、僕が真面目に答えたところで『何マジになってるの』とか言われそうだから。

 

 

口の端が変な風に釣りあがった。

 

 

 

 

 

鬼頭はちょっとため息を吐くと、

 

 

 

 

 

「神代先生って鈍感だね」とけだるそうに口を開いた。

 

 

 

 

P.46


 

 

 

 

鈍感……

 

 

どういう意味だ、それ……

 

 

 

 

「もうこんな時間」

 

 

僕の疑問を振り払うように、鬼頭は腕時計を見た。

 

 

僕も腕時計に視線を落とした。

 

 

時計は7時を指していた。

 

 

 

 

いつの間にかこんなに時間が経っていたのだ。

 

 

 

 

「今日のところは終わりにしよう」

 

 

僕は終わった分のプリントを束ねた。

 

 

 

 

僕と鬼頭は一緒に準備室を出た。

 

 

僕は職員室に帰って、少し仕事をしたら帰れる。

 

 

でも鬼頭は……。

 

 

こんな時間まで引っ張って一人で帰らせるのは可哀想だ。

 

 

 

 

 

「鬼頭、少し待ってて。送ってくよ」

 

 

 

 

 

 

 

気をつけろ―――

 

 

 

 

またまこの警告の言葉が頭をよぎったが、僕はそれを無視した。

 

 

 

 

 

 

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