TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後8時の写真


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

「ほれ、お前の荷物だ。水月がお前にって。落ち着いたらいつでもいいから戻って来いって言ってたぞ」

 

 

そう言ってボストンバッグを手渡されたのが、日曜日の朝だった。

 

 

やることがないから何となく朝放映してるアニメ番組をぼんやり見てたら、保健医がソファからむくりと起きだして早々に言った。

 

 

「……ありがと。コーヒーでも飲む?」

 

 

「ん?あぁ。じゃ、頼むわ」

 

 

保健医の部屋はダイニングキッチンとリビングルームがくっついていた。

 

 

だからあたしがキッチンでコーヒーを作ってるところが保健医の座ってるソファから丸見えだ。

 

 

保健医はあたしが手際よくコーヒーを作る様をじっと見ていた。

 

 

「なぁお前、あいつに好きな奴がいるって知ってた?」

 

 

あたしはコーヒーメーカーのポットをセットする手を止めた。

 

 

少し悩んだ末、

 

 

「……うん」と短く答えた。

 

 

「そっか……、俺だけ知らなかったわけだ……」

 

 

保健医はソファの背もたれに腕を置いて、その上に頭を乗せた。

 

 

神代と何かあったのかな?今日の保健医、ちょっと変。

 

 

「そんなにショック?知らなかったことが」

 

 

「いや。……まぁショックっていやぁショックだな。誰よりも近くにいた自信があったし」

 

 

「ひとは他人のことを全て知るなんて無理だよ。どんなに仲が良くても、どんなに近くでも。

 

 

 

 

他人を全部知ることなんて不可能だ」

 

 

 

あたしだって神代の心のうちを知らない。

 

 

あんなに近くにいたのに。

 

 

 

 

 

 

P.343


 

 

同じことで乃亜姉や明良兄のこともそうだ。

 

 

あたしは彼女らの本当の気持ちを知らない。

 

 

何を思って、どうしたいのか。本当のことなんて知る由もない。

 

 

 

 

人間ってめんどくさい。

 

 

 

―――

 

――

 

 

あたしは午前中に着替えを済ませると、保健医と千夏さんに出かけると言ってマンションを出た。

 

 

二人は口には出さなかったけど、心配してたみたい。

 

 

「いいか?夜までには絶対帰って来いよ。門限9時だ。分かったな!」

 

 

あたしはあんたたちの娘か、と突っ込みたかったけどやめた。

 

 

しつこいぐらい念押しされて、あたしが何とかマンションを出ると駅に向かった。

 

 

電車で一本、2駅ぐらいのところにあたしんちがある。

 

 

楠家もだ。

 

 

あたしは実家を素通りして隣の楠家のインターホンを押した。

 

 

「はい、どちら様?」

 

 

扉を開けてくれたのは、明良兄と乃亜姉二人のお母さん。

 

 

おばちゃん、ずいぶん見ないうちに一段と小さくなったみたい。

 

 

無理もないか。乃亜姉があんなふうになっちゃったんだもんね。

 

 

今年は明良兄も受験だし、疲れ切っているのが分かった。

 

 

でも

 

 

「あらあら、雅ちゃんお久しぶりねぇ。元気してた?」

 

 

乃亜姉と同じ笑い方で、同じ温かい笑顔であたしを迎えてくれた。

 

 

 

 

 

P.344


 

 

 

「明良まだ寝てるみたいよ。昨日遅くまで勉強してたみたいだから。起こそうか?」

 

 

「ううん、もう少し待ってみる。その間に乃亜姉ちゃんの部屋に行ってもいい?」

 

 

おばちゃんは、ちょっと悲しそうに微笑むと、

 

 

「ええ、行ってあげて。昔みたいに気軽に、ね」

 

 

 

 

 

あたしは乃亜姉の部屋を開けた。

 

 

おばちゃんがこまめに掃除してるんだろう、誇りっぽくもなかったし家具や小物は几帳面な乃亜姉が整理したままになってる。

 

 

 

 

どうしてここに来たんだろう。

 

 

乃亜姉に直接会いに行けばいいのに。

 

 

ううん。それはできない。

 

 

 

 

あたしは、乃亜姉を―――裏切ったから。

 

 

 

どんな顔して会いに行けばいいの?

 

 

 

ここに来たのは、あたしの勝手な気持ちを少し許してもらえる気がしたからだ。

 

 

 

 

 

あたしって最低。

 

 

 

 

P.345


 

 

あたしは乃亜姉が使っていた勉強机の椅子に腰掛けた。

 

 

勉強机の上にディズニーランドのお菓子の空き缶をペン立てにしたのと、デスクライト、参考書や文庫本がちょこっと乗っていて、その隣に写真立てがあった。

 

 

木枠の写真立てに納まってるのは、家族4人とあたしが写った写真だった。

 

 

何年か前のお正月にとった写真だ。

 

 

この年も両親は仕事があってあたしは一人だったんだ。

 

 

だから、あたしは楠家と正月をともにしたんだった。

 

 

優しいおばちゃん。ちょっと強面だけど明良兄とよく似たおじちゃん。明良兄と、あたしと、

 

 

 

 

ひまわりようなこぼれる笑顔を見せる乃亜姉。

 

 

 

この頃は楽しかった。

 

 

幸せだった。

 

 

 

 

年のほとんどを仕事に費やす両親、友達の少なかったあたしは唯一3人で居るときが心休まるときだった。

 

 

 

いつも三人でいたよね。

 

 

あの頃はずっと三人でいられると思った。

 

 

 

ずっと……

 

 

 

 

P.346


 

 

あたしは視線を壁に据え付けられてる本棚に向けた。

 

 

本棚には雑誌や写真集、エッセイ本や小説等、ぎっしり本が詰まってる。

 

 

あたしは“ゲーテ”の詩集を手にした。

 

 

何を思ってこれを手にしたのか分からない。だけど、何となくそこに目がいったのだ。

 

 

ぱらぱらとめくっていくと、真ん中のあたりでぱっくりときれいにページが開いた。

 

 

 

 

不思議に思ってページをめくると、一枚の写真がはらりと足元に落ちる。

 

 

 

写真?何でこんなところに?

 

 

 

あたしは落ちた写真を拾い上げた。

 

 

 

 

その写真は乃亜姉と明良兄が二人で写ってる写真だった。

 

 

乃亜姉が自殺未遂をする、少し前だ。二人とも制服姿だった。

 

 

明良兄がカメラを持っているのだろう。手前に腕が伸びていた。

 

 

乃亜姉と明良兄、二人は恋人のように寄り添って、明良兄は白い歯を見せて笑っている。

 

 

乃亜姉は―――ちょっと恥ずかしそうにはにかんで頬を赤くしていた。

 

 

 

 

 

こんな写真いつの間に撮ったんだろ?

 

 

それにしても仲がいいな。

 

 

まるで恋人どうしみたい。

 

 

 

恋人……

 

 

 

 

 

 

P.347


 

 

あたしは写真を持ったままそのページにある文を読んだ。

 

 

 

「愛よ、お前こそはまことの生命の冠、休みなき幸」

 

 

 

 

 

声に出してあたしは目を開いた。

 

 

これ……

 

 

この写真は何でこんなところに入ってたの?

 

 

まるで人目を憚るように。

 

 

 

ねえ、何で?

 

 

そう言えばいつだったか、神代のパソコンに保健医とのツーショットが保存されてたのを思いだす。

 

 

別に不倫してるわけでもないし、男同士なんだからデスクトップに保存しておけばいいものを、隠すようにマイピクチャにあったんだっけ?

 

 

神代が保健医を好きってことを後から知って納得したんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

乃亜姉は何を思って明良兄との写真をこんなところに隠したんだろ。

 

 

 

 

嫌な予感がする。

 

 

 

あたしはとんでもない間違いを犯してるんじゃないか―――って。

 

 

 

 

 

 

 

P.348


 

 

明良兄の部屋をノックしたけど、中から返事がない。

 

 

おばちゃんの言った通りまだ寝てるのかもしれない。

 

 

あたしは返事を待たずに、そっと明良兄の部屋を開けた。

 

 

案の定、明良兄は布団にくるまって寝息を立てていた。

 

 

「明良兄……お兄。」

 

 

ゆさゆさと軽く揺さぶってみたけど、

 

 

「ん~?」と気のない返事が返ってくるだけ。

 

 

 

 

 

あたしは明良兄を見下ろした。

 

 

妹、としてじゃない。ただの女としての視線で彼を見た。

 

 

口元まで布団を引き上げて、整った鼻梁から上があらわになってる。

 

 

長い睫も、きりりと上がった眉も整っていて綺麗だった。

 

 

妹の贔屓目じゃなくても明良兄はかっこよく見える。

 

 

 

だけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。

 

 

 

 

じっと見つめていても明良兄は身動き一つしない。

 

 

その寝顔がひどく無防備だ。

 

 

仕方なしにあたしはベッドにあがると、布団をめくって明良兄の布団にもぐりこんだ。

 

 

昔はよく乃亜姉と三人仲良く一緒に寝たよね。

 

 

明良兄はこちらに背を向けてる。

 

 

その広い背中にぴとっと寄り添って、

 

 

「明良兄。起きてよ……」と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

P.349


 

 

ごそごそと、みじろぎしたけど明良兄は起きだしてくる気配がなかった。

 

 

「明良……」

 

 

もう一度呼びかけてみる。

 

 

ふいに明良兄が身動きして、体をこちらに向けた。

 

 

寝ぼけたような目を半分開けて、

 

 

「何だ?雅……?」

 

 

とうつろな声で答える。

 

 

「ん」

 

 

明良兄は何やら幸せそうに笑うと、あたしの首の後ろに腕を回してきた。そのまま腕枕をされる。

 

 

「何か久しぶりだなぁ。こうやって寝るの」

 

 

「明良兄、あたしは寝に来たんじゃないよ。ちょっと聞きたいことがあって」

 

 

「ん~?聞きたいこと……?」明良お兄は起きる気配がなさそうで、のんびりと答える。

 

 

「うん。ねえ、乃亜姉の……」と言いかけて止めた。

 

 

「乃亜がどうしたぁ?」

 

 

「ううん。何でもない。ねぇ明良兄、お兄は好きでもない人とエッチしたことある?」

 

 

「ん~……」とまだ寝ぼけた声を出して、ちょっと沈黙があった。

 

 

また寝ちゃったのかな、なんて思ってると、突如がばっと起きだした。

 

 

 

 

 

「な!お前……!まさかっ!神代と!?」

 

 

 

 

 

P.350


 

 

あたしはちょっとびっくりして、目をぱちぱちさせながら明良兄を見上げた。

 

 

「何もないよ。ただちょっと気になっただけ」

 

 

「気になったって……なんだよ、急に」

 

 

あからさまにほっとして明良兄が肩の力を抜いた。

 

 

「ねぇ、答えて?明良兄はそういうのない?」

 

 

明良兄はちょっと考えるように腕組みをして、目を細めた。

 

 

「そんなこと聞いてどうするんだよ?」

 

 

「答えてくれないならいいや」

 

 

あたしは眉をしかめて起き上がると、布団から出ようとした。

 

 

その両肩に明良兄の手が置かれた。

 

 

 

 

 

あたしが首をかしげると、

 

 

 

勢い良くベッドに倒された。その上に起き抜けの明良兄が覆いかぶさってくる。

 

 

 

 

「ちょっと!いきなり何する……」

 

 

「これが答え」

 

 

明良兄の真剣な顔が驚くほど間近にあった。

 

 

 

 

明良兄の黒い瞳の中に底光りする何かを見た。

 

 

 

 

 

P.351


 

 

明良兄の顔があたしの首に降りてきた。

 

 

ふわり、と柔らかい髪をあごの先に感じる。

 

 

明良兄の唇があたしの首筋にそっと触れる。

 

 

優しく……優しく、まるで壊れ物を扱うような。そんな感触だった。

 

 

前に一度保健医にもこんなことされたことがあったけど、保健医にこんな愛情を感じられなかった。

 

 

 

愛情……

 

 

そう、確かに明良兄の唇には愛情が感じられる。

 

 

それは男女の愛ではなく、家族としての愛だ。

 

 

 

 

「お前なぁ、もっと抵抗しろよ」

 

 

明良兄が呆れたように顔をあげた。

 

 

「だって明良兄だよ。危険を感じないんだもん」

 

 

「俺だって男だっつーの。お前みたいな可愛い女がいればそりゃヤりたくなるわ」

 

 

「嘘ばっか」

 

 

あたしはちょっと微笑んだ。

 

 

明良兄は面白くなさそうに唇を尖らせた。

 

 

「嘘じゃねぇよ。男なんて所詮は俗物だ。頭ん中ではそのことでいっぱいだ」

 

 

「説得力ないなぁ」

 

 

あたしは笑いながら起き上がった。

 

 

 

 

「だって俺、好きな女とセックスしたことねぇもん」

 

 

 

 

 

 

P.352


 

 

明良兄はベッドから立ち上がると、机の引き出しからタバコの箱を取り出した。

 

 

神代と吸ってる銘柄が同じだった。

 

 

「ここで吸うの?下におばちゃんいるよ?」

 

 

「バレやしねーよ」

 

 

そう言って一本取り出し火を点ける。

 

 

ため息とともに煙を吐き出しながら、明良兄はあたしの隣に腰を下ろした。

 

 

「俺は今まで、好きでもない女と付き合ってキスして、セックスしてきた」

 

 

「できるもんなの?」

 

 

あたしは目を細めて明良兄の横顔を見た。

 

 

明良兄はぼんやりと定まらない視線を壁に向けてる。

 

 

「割り切りゃ案外簡単だった。ずっと好きな女には、ホントの気持ちを言えやしねぇから。その代わりで、気持ちや体を埋めるんだ」

 

 

神代もそうだったのかな?

 

 

保健医に気持ちを伝えられないから、その隙間を埋めるため……

 

 

 

 

「明良兄?好きなひといるの?」

 

 

明良兄は組んだ脚の上に頬杖をついてこちらを見た。

 

 

 

 

 

 

 

P.353


 

 

切れ長の瞳の奥がゆらゆらと揺れている。

 

 

さっき見た光が消えかかろうしていた。

 

 

切ない目。哀しい恋をしてる目だ。

 

 

神代の目と同じ色をしてる。

 

 

 

 

 

「乃亜姉を好きなの?」

 

 

 

 

 

あたしは思い切って聞いてみた。だって明良兄は気持ちを伝えられないと言った。既婚者か同性か、どちらかだろう。

 

 

でも明良兄はそのどちらでもない気がした。

 

 

明良兄は何も答えなかった。沈黙が流れて、その間に明良兄は2回ほどタバコに口をつけた。

 

 

「だってありゃ妹だろう?」

 

 

やがて明良兄が切り出した。

 

 

「でも血は繋がってないじゃん」

 

 

「ばっか。向こうは本当の兄貴だと思ってるんだぜ?気持ち悪いんだろ。んなもん」

 

 

明良兄はちょっと自嘲じみて笑った。

 

 

伏せた目に陰りを見た。

 

 

 

 

「それに、あいつは神代が好きなんだ。ずっと……」

 

 

 

 

 

 

P.354


 

 

ずっと―――

 

 

ホントにそうだろうか?

 

 

 

 

あたしは写真を持ち帰ることにした。

 

 

乃亜姉が明良兄を好きなら……

 

 

 

 

何も問題ないじゃん。

 

 

 

 

 

でも、そんな簡単な問題じゃない。

 

 

だって乃亜姉が死の間際に言った言葉はどうなるの?

 

 

 

乃亜姉が神代と仲良かったのも、周知の事実だし。

 

 

神代も乃亜姉の自殺未遂には責任を感じてるみたいだった。

 

 

 

 

「愛よ、お前こそはまことの生命の冠、休みなき幸―――かぁ」

 

 

 

じゃ、何で乃亜姉は死を選ぶことをしたんだろう―――

 

 

 

 

 

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