TENDRE POISON
~優しい毒~
『はじまりの予感』
◆午後8時の秘め事◆
◇◇◇◇◇◇◇◇
「送ってくよ」
神代は真顔で言った。
「は?いいし。一人で帰れる」
「そんなこと言わないでよ。女の子一人じゃ危ない」
「危ないってそんな時間じゃないし」
そう言ってあたしは廊下の窓の外を見た。
日が暮れて、暗い夜闇が広がっていた。
思った以上に時間が過ぎていたようだ。思いのほか濃い紺色が夜空を覆っていた。
「いいから。あとちょっとで終わるからちょっと待ってなさい」
神代はそう言いおくと、さっさと職員室に入っていった。
意外に強引な奴。あたしはちょっとびっくりした。
でも優しい……
傘を貸してくれたときもそうだ。その優しさに裏側なんて微塵も感じなかった。
いや、でもそれが奴の計算かもしれない。
気をつけなければ。
それから神代が戻ってくるまで30分もかからなかった。
あたしは大人しく、神代についていく。
神代が向かった場所は職員用の駐車場だった。
決して広くない駐車にはまだ数台車が停まっている。まだ教員の誰かが数人残っているのだろう。
その中の一台、黒いエスティマに神代は近づいた。
どちらかというと小柄で華奢な体系なのに、車は以外にでかい。
「さあ、乗って?」
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神代は助手席のドアを開けると、あたしを中に促した。
あたしは戸惑った。
いくら先生だからと言って、いきなり車に乗り込むのはどうかと思ったんだ。
危険じゃないにしろ、ちょっと浅はかな感じがする。
軽い女だと思われたら不本意だ。いや、そっちの方がやりやすいのか?
でも……
密室で二人きりでいれば、少しは何かを掴めるかも。
あたしは意を決して、乗り込んだ。
神代もすぐに運転席に乗り込む。
手馴れた手付きでキーを捻ると、エンジンをかけた。
「じゃあ、行くよ?」
そうしてあたしたちを乗せた車はゆっくりと発進した。
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「鬼頭の家ってどこ?」
あたしは場所を告げた。
「でも、駅の近くでいいです。自転車置いてあるから」
嘘をついた。
自転車なんて乗ってきていない。
でも、家まで送られたら、隣に楠家があるのがばれちゃうから。
「?家まで送るよ。ついでに、遅くなった理由を君のご両親にきちんと説明するよ」
どこまでも律儀な奴。まぁ?今は色々ホゴシャが煩い時代だから、神代はマニュアルに従っただけだろうけど。
「いいって。うち両親いないし」
「いないって……?」
神代が顔をこちらに向けた。
信号は赤だった。
「うちの両親そろって海外勤務なんです。だからあたし一人」
神代はちょっと考えるように瞳を伏せると、
「そっか……、じゃあ一人で寂しいね」
ぽつりと呟いた声はどこか寂しげだった。
は?
寂しいって、このあたしが?
何言い出すのこいつ。
それもこんなに神妙な顔して。
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「寂しくなんてないよ。だって一人のほうが気が楽だし」
あたしの言葉に神代はさらに眉を寄せた。
「一人が寂しいことなんてことないよ。人間誰しも」
随分感慨深げなことを言う。
でも、そんなこと言われたの初めて。
『雅は強いから一人で大丈夫ね』誰もが口を揃えて言う。
だから神代の言葉で何となく心がほぐれていく。あたしがいつ自分で「強い」って言った?勝手にイメージしたり勝手に決めたり。
ま、別にそれに関しては否定しないけど。だって独りで寂しいとか思ったことないし。
でも、時々
甘えたくなる。
その手に縋りたくなる。
そんな考えをあたしは慌てて否定した。
「先生は一人ですか?」あたしは聞いた。
「僕も一人暮らしだよ」
「じゃあ寂しいですね」
あたしがそう言うと、神代はちょっと目をみはって、
「うん。寂しいな」
と一言呟いた。
こいつ……
意外と素直。
ここまでストレートに心のうちを見せてくれると、ちょっとこっちが怯む。
だって、あたしは隠し事がたくさんあるから。
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ふいに神代が前を向いたかと思うと、車が発車した。
夜のネオンに反射した神代の横顔は真剣そのものだった。
そういえば、車の運転がうまい。あたしなんて神代の反応が気になって信号が変わったのすら分からなかったし。
滑らかに走っている。
車を運転する神代は先生の姿ではなく、一人の男で
どちらかと言うと柔和で中世的な顔立ちなのに、前を向く表情は真剣で男らしさを感じた。
意外にかっこいいかも……
しかも今まで想像してきた男と全然違うし。
本当にこいつが乃亜姉を騙して捨てた……?
はっとなってあたしは顔を戻した。
何言ってるの!
こいつは乃亜姉の憎き敵!
何かネタになるものがないかとあたしは車内をきょろきょろと見渡した。
車の座席は3列で、どこもすっきりと片付いていた。
ドリンクホルダーには缶コーヒーがあり、灰皿にはタバコの吸殻が残っている。
タバコ……吸うんだ。
灰皿のすぐ上にカーオーディオに繋がれたiPodに目がいった。
あたしがそのiPodを見ていると、
「音楽でもかける?」と聞いてきた。
あたしは首を振った。その代わり
「中見てもいい?」と聞いてiPodを手にとる。
「いいよ」
あたしはiPodの操作ボタンに指を走らせた。
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エミネム、アッシャー、ジャスティン・ビーバー……
どれも洋楽だ。それも男のアーティストばっかり。
ボンジョヴィなんてのもある。
顔に似合わず激しいヤツ。
だけど、
色気ないなこいつ、なんて突っ込みどころは満載だったけど、その中に“浜崎あゆみ”のジャケットが混じっているのを見つけてあたしは目をまばたいた。
「あゆ、好きなの?」
「え?うん。結構昔から」
神代は微苦笑を浮かべた。
「あたしも。あたしもあゆ好き……」
悔しいけど、ホントのことだ。
何で好きなアーティストが合っちゃうんだろ。
「本当?鬼頭は何の曲が一番好き?」
「あたしは……Is this LOVEが好きかな。歌詞はしっとりしてるのに、曲調は激しいの」
「あ、それは僕も好き!」
神代の顔が輝いた。
「片恋の唄なんだよね」あたしが言うと、
「うんうん」と頷く。
神代はよっぽど好きみたいだ。
あたし……なんでこんな話してるんだろ。
なにかネタになるものを探してるはずなんだけど。
「じゃあさ、今度カラオケでも行くか?」
え―――?
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「いや!ごめん!いまのなし。車だし、ついついツレと居るときみたいになっちゃって。
教師が生徒を軽々しくカラオケなんて誘ったらだめだよな。
うん。だめだ。本当にごめん」
神代は早口に言って慌てる。
そりゃそうだろ。
教師と生徒が……なんてありえない展開だ。
神代はよく女生徒から冗談か本気か分からないけど「先生カラオケ行こ~」と誘われている。下校時間になるとよく目にする光景だ。
その誘いに対して「僕の財布目当てだろ~、生憎だけど安月給で年中金欠。友達と行きなさい」と答えている。
うまいかわし方だ。女生徒たちも神代が早々なびかないことを知っているのか、あまりしつこく誘わない。
だけど何で......?何であたしを気軽に誘ってくるの?それがこいつの手ってワケ?
まぁ今の口調からして下心は欠片もなさそうだけど。
なんて言うの?
親しい友達を誘うような、そんな気軽な口調だった。
考えすぎ、か。
こいつ天然??教壇から降りると、少しあたしが心配になるぐらい抜けてるところがある。
大体教師と生徒がカラオケに行こうものなら、それだけで大問題だ。
問題に―――
「いいよ。行こうよ」
あたしは神代の横顔に向かって言った。
「え?いや、僕のは冗談だから、気にしないで」
「そうなの?あたしは先生と行きたいな」
あたしがちょっとむくれて見せると、
「じゃあ、今度機会があったらね」と言ってちょっと笑った。また、うまいかわし方だ。
機会があったら……なんて、何て便利な言葉。
90%の確率で実行することはないのに、相手に気を持たせる言葉。
あたしはちょっと残念に思った。
もちろん神代を引きずり落とすのにいい作戦が失敗に終わったことに。
それにしても……
ホントに見事に女の影がない。
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「先生の車って何か殺風景だね」
シガレットケースをはじめとする小物は全体的にシルバーや黒で統一されている。
「そうかな?男の車なんてこんなもんだと思うけど」
「じゃあさ、あたしが可愛くしてあげる」
そう言ってあたしは鞄の中をまさぐった。
あたしだってそんな可愛いものを持ってるわけでもないけど。
「あ。これなんてどう?」
ケータイについてるスヌーピーのストラップを見せる。
首のところに花輪が巻きついてるアロハスヌーピー。このぬいぐるみは乃亜とショッピングをしていた際に雑貨屋で見つけたものだ。
あたしは特に欲しかったわけじゃないけど、乃亜がおそろいにしよう、と言って半ば強引に揃わされたものだ。
皮肉だね。お守りみたいに持ち歩いてたのに、こんなときに役立つとは。別に盗聴器とかさすがに入れてないけど。
でも会話をつなぐ材料にはちょうどいい。
「どこにつけるの?」
「そうだね」
あたしは車内をぐるりと見渡した。
できればあたしがつけたということを思い出せるような場所……
乃亜の存在を忘れないような場所。
「ここなんてどう?」
あたしはルームミラーを指差して、ついでにスヌーピーを付けた。
「それじゃミラーが見えないって」
神代は苦笑しながら、横を見た。
信号は赤だった。
スヌーピーが大きく揺れた。
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どうしてこんなことになったんだろう……
すぐ近くには神代の顔があって―――
ホントに近く……
神代って近くで見るとホントに整った顔してる。悔しいけど。
ぱっちりとした二重の目。すっと通った鼻筋。薄い唇……
神代はちょっと瞬きをした。
瞳を閉じて、開ける一連の動作がとてもきれいに思えたんだ。
あたしは神代の顔にそっと近づいた。
目を閉じて、神代の唇に自分の唇をそっと重ねる。
キス―――
いつの間にかあたしはキスをしてたんだ。
それもはじめての……
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「ごめっ!」神代が慌てて顔を引っ込める。
暗がりでもわかるほど、顔を赤くして。
「何で謝るのよ。したのはあたしだし」
はじめてのキスなのに、あたしは拍子抜けした。
もっと仕掛け返してくるかと思ったけど。こっちがびっくりするぐらい動揺している。その表情には作ったものが感じられなかった。
あたしにとってははじめてのキス。
別に神代のことが好きとかじゃないけど、
でも……嫌じゃなかった。
ブー
後ろからクラクションを鳴らされた。
「わっ!」
神代は慌てて発進させる。
あたしは自分の唇をそっと指でなぞった。
神代からは爽やかで心地良い柔軟剤の香りと、ほんのかすかにタバコの匂いがした。
忘れなくなりそうな
香りだった。
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目的の駅につくまで沈黙が続いた。
あたしは沈黙には慣れてるから良かったものの、神代は始終そわそわしてた。
何か話しかけるべきだけど、話題が見つからない。それにさっきのキスに関して何らかの謝罪や言い訳を考えているようでもある。
そんな感じだった。
それが、不自然にも思えた。
駅に着いてあたしが車から降りる。
「じゃあ……気をつけて」
「うん。先生もね」
「ありがとう。じゃ。」
短く言って神代は車を発進させた。
これで今日は終わり―――
だったけど……
「先生!」
あたしは走り出そうとする黒いエスティマに向かって声を投げかけた。
大声を出すなんて久しぶりだ。
あたしの声なんて聞こえないと思ってたのに、神代の車はキッと音を立てて停まった。
窓から神代が顔を出す。
「どうした?」
「また明日ね」
神代はちょっとはにかんだように笑って、車を発進させた。
また明日……復讐は続いていく。
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変なの……
あたしが想像していた神代はもっと女に対して酷い奴で慣れてるもんだと思ってたのに。
拍子抜け。
案外、あいつを落とすのは簡単なのかも。
いや、あの慌てぶりだ。逆にやりづらいかも。
それに、あの慌てぶりはもしかして演技かもしれないし。油断はできない。
なんて考えてると、
「よっ!」
と背後から声を掛けられた。
明良兄だった。
「お兄……」
昨日ぶりなのに、随分久しぶりに思える。
「今、車から降りてこなかったか?」
明良兄が怪訝そうに目を細めて神代が去った方の道路を見やる。
「うん。神代に送ってもらった」
「神代に!?何で!」
「何でって……成り行きで」
言ってあたしはさっきのキスを思い出した。
顔が熱くなる。
「お前!神代と何かあったのか?」
明良兄が勢い込む。
「別に……何も」
あたしは明良兄に一つ嘘をついた。
腕時計を見たら、夜の8時を指していた。
午後8時の秘め事だった。
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