TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午前1時の海


 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

鬼頭が居てくれて良かった。

 

 

彼女の存在が僕にとって大きな救いだった。

 

 

それどころか、誰かの前で思いきり涙を流したせいかな、気持ちがすっきりとして妙に清々しかった。

 

 

彼女は慰めの言葉も励ましの言葉も僕には言わなかった。

 

 

ただ黙って僕の悲しみを受け止めてくれた。

 

 

 

 

決定的な失恋だったけど、もやもやした何かに区切りがついた。

 

 

「~♪」

 

 

さっきから鬼頭はアップテンポの曲ばかりを選曲して歌っている。

 

 

それも僕が好きなあゆばかりだ。

 

 

普段テンション低めの鬼頭とカラオケなんでどうなるかと思ったが、意外に盛り上がっている。

 

 

可愛い生徒だから、とか贔屓目ではなくて、鬼頭は歌が結構上手だ。

 

 

曲を歌い終えた鬼頭が顔を高揚させて、僕の隣に座った。

 

 

「やっぱあゆはいいよね。元気になれるから」

 

 

「やっぱいいね。女の子が歌うと」

 

 

僕は笑った。

 

 

すると鬼頭は眉を寄せて、

 

 

「え?先生、あゆを歌うことってあるの?」

 

 

「僕は歌わないけど、たまにツレとかでいるよ。歌うやつ」

 

 

「へ~、男の人が歌うとどんな風になるんだろうね?」

 

 

「結構いいよ。低音風にアレンジして、変じゃないよ」

 

 

「へぇ、一度聞いてみたいな」

 

 

「じゃあ今度そいつも呼んでみる?」

 

 

「うん」

 

 

鬼頭が膝の上で頬杖をついて微笑んだ。

 

 

綺麗な笑顔。

 

 

僕は鬼頭の笑顔が大好きだ。

 

 

 

 

 

「いや、やっぱやめよう」

 

 

「え~、何で?」と鬼頭は唇を尖らせてる。

 

 

だって、鬼頭を誰か他の男に見せるなんてもったいないから。

 

 

 

 

 

 

 

P.393


 

 

僕たちは車で1時間のところのカラオケボックスまで来ていた。

 

 

近くだと誰かに遭遇する恐れがあったから。

 

 

「どうする?もう5時だけど。帰ったらちょうど晩御飯の時間だし」

 

 

と言いつつも、本当はこのまま二人でいたかった。

 

 

家でも二人きりには違いないが、ここでは誰も僕たちの関係を知る者はいない。

 

 

もう少しだけ……

 

 

何故だか鬼頭と二人、この場所にいたかった。

 

 

 

 

「あたし、まだどっか行きたいな」

 

 

鬼頭が名残惜しそうに言った。

 

 

「え……?」

 

 

「って無理だよね。ゆずもいるし」

 

 

 

 

 

「いいよ。行こう。僕もまだ帰りたくなかったんだ」

 

 

僕の言葉に鬼頭は目をぱちぱちさせて、ちょっとの間黙ったが、すぐに

 

 

「なにそれ。普通、女の人が恋人に言う台詞でしょ?」と笑った。

 

 

「そ、そうかな……」

 

 

僕は顔が赤くなるのを感じた。

 

 

 

 

P.394


 

 

僕たちは近くのカフェでお茶をすることにした。

 

 

クリスマスイブという事であって周りはカップルだらけだ。

 

 

そのカップルに混じって普通の恋人同士のような、そんなそぶりでお茶を飲む。

 

 

何てことないことだったけど、すごく安心して幸せを感じたんだ。

 

 

アールグレイティーを飲みながら、向かい側の席で鬼頭がじっと僕を見る。

 

 

「さっきから女の人がみんな先生のこと見てく」

 

 

ちょっと面白くなさそうに唇を尖らせている。

 

 

それが何だか可愛かった。

 

 

「そんなことないよ。むしろ僕は男共から恨みがましい目で見られてる」

 

 

実際、カップルばかりの客だったが彼氏と思われる男が鬼頭をちらちらと見ていたのだ。

 

 

「何で?」

 

 

 

 

「何でって、君が可愛いからに決まってるでしょ?」

 

 

 

 

 

僕の言葉に鬼頭は言葉を詰まらせて顔を赤くした。

 

 

あ、照れた。

 

 

何だろう。すっごく可愛い。こんな顔もできるんだ。

 

 

鬼頭は照れ隠しのためか紅茶を勢いよく飲んだ。

 

 

「っつ!」

 

 

「バカ!何やってるの!?」

 

 

僕は思わず身を乗り出した。

 

 

鬼頭は口元を押さえてる。大きな目の目尻にほんの僅かだけど涙が浮かんでいた。

 

 

「火傷したぁ」

 

 

「大丈夫か?ちょっと見せて……」

 

 

いささか乱暴かと思ったけど、僕は鬼頭の顎を指で持ち上げた。

 

 

 

すぐ至近距離に鬼頭の顔があって、まともに鬼頭と目が合ってしまった。

 

 

 

 

 

 

P.395


 

 

鬼頭とキスをしたことがある。

 

 

枕を並べて一緒に眠っている。

 

 

今更

 

 

なのに……

 

 

 

心臓の血管が浮き出て一人暴れだしそうになっている。

 

 

 

僕は慌てて顔を逸らした。

 

 

鬼頭も顔を赤くして、ぱっと僕から離れる。

 

 

 

「だ、大丈夫ならいいけど……」

 

 

「う、うん。平気」

 

 

 

 

 

何だろう。

 

 

この胸の鼓動は。

 

 

ズキズキと痛いのに、でももっと感じていたい。

 

 

 

まこに対してもこんな風になったことはないのに。

 

 

まるで初めて恋を知ったようだ―――

 

 

 

 

店を出る頃には何となくぎくしゃくした雰囲気もだいぶ和んでいた。

 

 

それから町をふらふらとウィンドウショッピングして、ついでに少し洒落たレストランで晩御飯も食べた。

 

 

まるで普通のカップルがするデートのようだ。

 

 

 

 

気づくと、夜の12時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.396


 

 

さすがにもう帰らなきゃな……

 

 

魔法は解ける。帰ったら、いつもどおり教師と生徒の間柄に戻る。

 

 

まるでシンデレラの気分だ。

 

 

 

名残惜しそうに窓の外を眺めていると、

 

 

「ねぇ先生。最後のわがまま聞いて?」

 

 

鬼頭がぽつりと呟いた。

 

 

寂しそうな、名残惜しそうな笑顔だった。

 

 

「―――いいよ」

 

 

「海行きたい……いつか好きな人ができたら行きたいって思ってたんだ」

 

 

 

 

僕は無言で頷くと車をユーターンさせた。

 

 

 

海までの道のりは遠くはなかった。

 

 

標識で海岸の表示が出てくるとあとは道なりにまっすぐ。

 

 

平坦な道だった。

 

 

その道すがら、鬼頭は黙りこくってじっと前を向いていた。

 

 

 

何を考えてるのかな……

 

 

気になったけど聞かずにいた。

 

 

鬼頭は元々テンションが低い子だったし、沈黙が苦ではないらしい。

 

 

 

 

僕も随分慣れたものだ。

 

 

以前は鬼頭と二人きりで沈黙が続くと、何を話していいのやら一人あたふたしてたけど。

 

 

でも僕は彼女のこうゆう静かな空気が好きだった。

 

 

 

彼女の纏うこの独特な空気が―――

 

 

 

好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.397


 

 

 

 

「海!」

 

 

鬼頭は車から飛び出ると、さっきの静けさはどこへやら両手をあげてはしゃぎだした。

 

 

年相応の反応が可愛く思える。

 

 

 

 

でも。

 

 

さすがに12月の海は冷える。

 

 

僕はトレンチコートの襟を立てて首をすくめた。

 

 

一方の鬼頭はブーツを履いてるとはいえ短いパンツであんな脚が露出してるのに、よくあんなに元気に走り回れるものだ。

 

 

 

「先生、早く~」

 

 

波打ち際で鬼頭が笑いながら手招きしてる。

 

 

 

僕は微笑みながらゆっくりと歩いた。

 

 

 

夜の海は真っ暗で、水平線の向こうが黒く沈んでいるように見える。

 

 

空に浮かんだ綺麗な形の三日月の明かりが、水面を照らして絵の具を滲ませたような淡い光を落としていた。

 

 

 

風も穏やかで、波が遠く近くでざざぁっと音を立てていた。

 

 

 

きれいだった。とても。

 

 

暗いだけの海だと思ったけど、その光景は僕が今まで見たどんな景色よりも

 

 

 

美しかった。

 

 

 

 

 

 

「せんせい」

 

 

 

それはきっと鬼頭がいるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

P.398


 

 

 

月の明かりが、鬼頭の漆黒の髪をつやつやと輝かせてる。

 

 

白い肌も、ぼんやりと滲んでいてフォーカスがかって見えた。

 

 

 

美しい……と思った。

 

 

 

この世のどんなものよりも。誰よりも。

 

 

 

鬼頭は輝いて眩しいほどだ。

 

 

 

鬼頭は光だ。

 

 

 

たった一つの光。

 

 

いつだって後ろ向きになると、鬼頭が僕を後押ししてくれる。

 

 

 

 

暗かった僕の心の海を映し出してくれる、たった一筋の輝き。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はいつの間にか鬼頭の元へ来ていた。

 

 

二人の影が砂浜にどこまでも伸びていた。

 

 

 

 

 

「先生ってば遅いよ」

 

 

鬼頭はむくれて唇を尖らせていた。

 

 

「ごめん、ごめん」

 

 

僕は笑うと、鬼頭の頭をそっと撫でた。

 

 

鬼頭はくすぐったそうに微笑みながら目を細めた。

 

 

 

 

彼女の笑った顔が好きだ。

 

 

照れた顔も好きだ。

 

 

怒った顔も、ときに無表情になるときも……すべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっと

 

 

 

 

気づいた。

 

 

 

ううん。

 

 

 

本当はもうずっと前から惹かれていた。

 

 

 

 

でも僕は気づかない振りをしていたんだ。

 

 

 

まこに対する恋心じゃない。

 

 

 

彼女に抱くこの気持ちは……

 

 

 

 

 

 

強烈な欲望。

 

 

 

 

 

P.399


 

 

 

「先生……」

 

 

月の明かりをバックに、鬼頭が口を開いた。

 

 

黒い髪が風に揺れている。

 

 

海の匂いに混じってタンドゥルプアゾンが風に乗って僕の鼻腔をくすぐった。

 

 

「どうした?」

 

 

 

 

「“ひとえに水月をもちてねむごろに空観する”

 

 

 

 

……菅家後集(かんけこうしゅう)の言葉。先生の名前ってそこから来てるんでしょ?」

 

 

 

「よく知ってるね」

 

 

僕は面食らった。気づいたのは、鬼頭が始めてだ。

 

 

 

菅家後集とは藤原道真が作った漢詩集だ。

 

 

水に映った月を現して、転じて実体のない幻のことを詠ったものである。

 

 

名づけたのは母親で、まるで女の子みたいな読み方もその意味も僕は嫌いだった。

 

 

 

 

 

でも……

 

 

「きれいな名前。見て、月が水面に映ってる。なんてきれい……」

 

 

たなびく髪を押さえながら、鬼頭は水平線の向こう側を指で指し示した。

 

 

僕は鬼頭の横顔を見つめた。

 

 

白い頬にぼんやりと月の光が反射している。

 

 

 

 

きれいなのは……鬼頭のほうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.400


 

 

この名前をきれいだとほめてくれた女の子はたくさんいた。

 

 

「水月にぴったりだね」

 

 

みんな口々に言った。

 

 

何がぴったりなんだ?

 

 

みんな本当の意味なんて知らないのに。

 

 

だから鬼頭の言葉はとてもリアルに聞こえたんだ。

 

 

本当の意味で褒めてくれたのは鬼頭だけだ。

 

 

 

 

僕は鬼頭の手をそっと触れた。

 

 

驚くほど冷たく冷え切っていた。

 

 

鬼頭はびっくりしたようにちょっと目をぱちぱちさせたけど、すぐにはにかむように微笑んだ。

 

 

僕もその顔に微笑み返し、鬼頭を引き寄せた。

 

 

バシャッと水が跳ねる音がして、鬼頭が僕の胸の中に納まる。

 

 

 

抱きしめたことなんて、これがはじめてではないのに。

 

 

彼女は思ったよりずっと華奢で柔らかかった。

 

 

 

 

「先生……?」

 

 

鬼頭が僕の腕の中で顔をあげる。

 

 

どうしたの?と目が語っていた。

 

 

 

 

遠くで波がザザっと大きな音を立てていた。

 

 

風が水面を滑るように吹いている。

 

 

 

 

 

 

「鬼頭……君が……」

 

 

 

好……と言いかけて、

 

 

 

「せ、先生!!」

 

 

 

鬼頭が目を見開いて、僕のコートを掴んだ。

 

 

 

 

一段と大きな波音が聞こえて、横を見ると

 

 

 

波がまるで津波のように押し寄せてすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.401


 

 

ひどい津波だった。

 

 

波にさらわれたり、溺れることはなかったけど、僕らは二人揃って頭から海水を被る羽目になった。

 

 

誤って海水を飲み込んでしまった。

 

 

喉の奥で塩っからい味を感じて、僕は激しく咳き込んだ。

 

 

隣で鬼頭も同じように咳をしている。

 

 

「鬼頭。大丈夫か?」

 

 

「うん。先生も……」

 

 

と言って鬼頭はぷっと吹き出した。

 

 

「二人ともずぶ濡れ。ひどいかっこ」

 

 

「そうだね」

 

 

髪も服もドロドロ。鬼頭なんて可哀想にせっかくのワンピース風の服が半分ぐらい灰色になっている。

 

 

せっかく気持ちを告白しようとしていたのに、何てタイミングが悪いんだろう。

 

 

いや、逆にタイミングが良かったのかもしれない。

 

 

まこに振られたばっかりで、すぐに鬼頭に行くなんて僕もどうかしてる。

 

 

それに何より相手は―――

 

 

 

 

 

生徒だ。

 

 

 

 

 

 

でも隣でくすくす無邪気に笑っている鬼頭を見ると、どうしても心臓がキュっとなる。

 

 

この痛みに近い感触は、ひどく甘くて切ない。

 

 

 

 

「どうしよう、このまま車に乗るわけには行かないよね?」

 

 

鬼頭はちらりと車の方を見やった。

 

 

「そうだね。どこかで乾かしてくか」

 

 

「乾かすってどこで?」

 

 

「う~ん」僕が考えてると、

 

 

「あ、あそこ!明かりついてる。どうだろ?」

 

 

鬼頭が指指したのは海岸沿いにあるカフェみたいな造りの白い建物だった。

 

 

アーチ状の屋根からオレンジ色の光を放ったランプが風に揺れている。

 

 

 

 

 

 

P.402


 

 

白い建物はカフェでも民家でもなかった。

 

 

「“ペンション シーサイド”って書いてある」

 

 

鬼頭が白樺でできた洒落た立て看板を読み上げた。

 

 

「あ~、でもペンションって泊まるとこだよね?他いこっか」

 

 

と鬼頭がくるりと建物に背を向ける。

 

 

 

僕は無言でその腕を引っ張った。

 

 

「先生?」

 

 

鬼頭が首をかしげた。

 

 

「泊まっていこう……

 

 

って何言ってるんだろうね、僕は」

 

 

僕は乱暴に頭をかいた。

 

 

 

ホントに何やってるんだか。

 

 

若い頃……それこそ鬼頭ぐらいの歳だったら迷わず言っていた言葉なのに、今は厄介なことに分別も常識も備えた大人になってる。

 

 

 

 

いや、正直に言おう。

 

 

 

臆病になってるんだ。

 

 

 

歳をとった分だけ……

 

 

 

 

 

 

 

P.403


 

 

チリン……と鈴の揺れる音が聞こえて、出し抜けに扉が開いた。

 

 

中から大学生ぐらいだろうか、“Sea Side”と書かれたエプロンを若い男が顔を出した。

 

 

男は僕たちを見て一瞬びっくりしたものの、

 

 

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様で?」

 

 

「あ、いえ。ちょっと服を……」と僕は言いかけたが、

 

 

「あの。今日は予約でいっぱいですか?」と鬼頭が口を開いた。

 

 

「1部屋なら空いてますよ」

 

 

男は人のいい笑顔をにこにこと浮かべた。

 

 

「じゃぁ泊まります」

 

 

「ちょっ!鬼頭!」

 

 

僕は驚いて鬼頭の横顔を見た。彼女の横顔は別段突発的なことを言ったようでもなく、いつもの何を考えているか分からない無表情を浮かべていた。

 

 

 

本当に何を考えてるのか……

 

 

でも、最初に泊まろうと言い出したのは僕だし、ここで止めるのはここのペンションの人にも鬼頭にも悪い気がした。

 

 

受付の帳簿に名前を書いて、男はすぐに木でできたルームキーを出した。

 

 

 

「お部屋にご案内します」

 

 

 

 

でも、正直嬉しかった。

 

 

まだかけられた魔法は解けない。

 

 

 

 

 

だけど僕は気づいていなかった。

 

 

 

魔法なんて最初から存在しないことを。

 

 

 

 

すべては巧妙に計算されたマジックに過ぎないことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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