TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後3時の薔薇


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

一見冷たそうに見えるけど、冷徹ではない。

 

 

感情を外に出すことがなく人一倍不器用な少女。

 

 

だけど、そこが何故か放っておけない。

 

 

 

それが鬼頭 雅だ。

 

 

 

 

 

一見軽そうで薄情に見えるけど、本当は誰よりも優くて、付き合った相手には誠実。

 

 

心の中が覗けるのなら覗いてみたい男。

 

 

それが林 誠人だ。

 

 

 

 

「先生って保健医のどこが好きなの?」

 

 

鬼頭の質問に僕はちゃんと答えることができなかった。

 

 

いつから好きだったなんて、もう思い出せない。

 

 

恋は唐突にやってくる。

 

 

まるで嵐のように。

 

 

 

 

誰も抗えない。誰にも止められない。

 

 

 

それが

 

 

 

 

恋―――

 

 

 

 

 

 

P.278


 

 

いつだったか、僕がまだ大学生のころ、

 

 

構内の喫煙室で一人ぽつりとタバコを吸うまこの姿を見つけたんだ。

 

 

大きな赤い薔薇の花束を膝に乗せて、背中を丸めてタバコを吸っていた。

 

 

その赤い花束が、まこの白いシャツによく映えていた。

 

 

周りの景色が消えて、彼だけにスポットライトが当たっているような、それほど洗練されていた光景だった。

 

 

この頃僕はまこのことが嫌いで、その憎たらしい程、花束が似合っちゃうところとか、同じ男として悔しかった。イマドキ花束なんてキザだけどそれが妙に様になるっていうか。自分にはないかっこよさが彼には溢れている。

 

 

僕もタバコを吸おうとしていて、箱を手にしていたけどちょっとぼんやりしていたら、

 

 

「よ」とまこの方が先に気づいて手を上げた。

 

 

僕は曖昧に手をあげた。

 

 

その頃は今より親しくなかったし、あまり好きでもなかったから。その距離感がちょうど良かったんだ。

 

 

けれど居合わせたことにちょっと後悔した。

 

 

 

 

 

「お前確か教養部の神代……だったよな」

 

 

「うん。君は医学部の林だよね」

 

 

医学部には見えない。将来医者を目指してると思えば益々、だ。

 

 

何となく離れて吸うにはおかしかったので、僕はまこの前の灰皿まで移動した。

 

 

まこはメガネの奥で僕をじっと目で追うと、立ち止まったところで、花束をずいと差し出した。

 

 

「?」僕は首をかしげた。

 

 

「やる。俺にはもう用済みだ」

 

 

「用済みって……どうして?」

 

 

まこはちょっと顔が歪めると、大きくため息を吐いて、メガネを直した。

 

 

 

 

 

「やろうと思ってた女に振られた」

 

 

 

 

P.279


 

 

「それを僕に?」

 

 

はっきり言って迷惑だった。花束なんてもらったってしょうがないし、第一もらったところでどうしようと言うのだ。

 

 

僕が手を差し出そうか、どうしようか迷っているとき、

 

 

「……いらねぇか」

 

 

とまこがぽつりと呟いた。

 

 

頭をうなだれて、首筋が露になっている。

 

 

その背中が妙に寂しそうで小さく見えた。

 

 

変なの。彼は僕よりずっと大きいし、男として堂々と頼りがいがありそうだったから。

 

 

 

「……もらうよ」

 

 

僕はまこの手から花束を受け取った。

 

 

まこが顔をあげる。

 

 

その表情が、どこかに感情を置き忘れてきたかのようにつるりと無表情だった。

 

 

いや、そう見えたのは最初だけで、次の瞬間まこは泣き出しそうに目のふちを赤くしたんだ。

 

 

メガネを取ると、

 

 

「わり」と言って大きな手のひらで両目を覆った。

 

 

僕は黙って隣に座って、何も聞かずにタバコを吹かせた。

 

 

 

 

このときは何も聞かなかった。

 

 

だけどまこが傷ついて疲れ切っていたのは分かったんだ。

 

 

まこに何があったのか、なんて知らない。だけどこのまま彼を独りになんてできなかった。

 

 

いつも自信に満ち溢れ、堂々としてて自分の信念を曲げない。そんな男が今は僕より頼りなげで小さく見える。

 

 

それと同時に彼に対する愛しさを覚えたんだ。

 

 

これは僕がまだ彼に恋してるという自覚がまだない頃の話。

 

 

 

 

 

あとから知った。彼はその日高校生から5年間付き合った彼女の誕生日に薔薇の花束をプレゼントする予定だったらしい。

 

 

だけど、その彼女はまこより10も歳上の男と結婚することを選んだ。

 

 

「信じられるか?この俺様がフられるなんて」てまこは笑いながら言っていたけど、本当はとても傷ついていたことを知っていたし、同時にとても彼女のことを愛していたことも知った。

 

 

 

 

それにやきもちを焼いた自分がいたことに、僕は随分戸惑ったものだ。

 

 

 

 

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手にした赤い花束の花びらがひらひらと空中に舞い、黒かった僕の視界を赤に染め上げる。

 

 

いつの間にか、大学の構内から今勤めている高校の教室内と光景が変わっていた。

 

 

僕は鬼頭 雅を見下ろしている。

 

 

机に突っ伏して、長い睫を伏せ心地良さそうに眠る鬼頭を。

 

 

鬼頭は僕の授業中、寝ているか余所見しているか―――挑むように睨んでくるか。

 

 

いつもその三種類のどれかだった。

 

 

僕はため息を吐いて、

 

 

「鬼頭!」と彼女の頭上から声を掛けた。

 

 

呼ばれた鬼頭がゆっくりと顔をあげる。寝起きで目がうつろだ。

 

 

「(x+5)2。この公式を展開しなさい」 

 

 

鬼頭は迷いもせずに

 

 

「x2+10x+25です」と鬱陶しそうに答えた。

 

 

わずらわしい何かを振り払うような、そんな淡々とした表情だ。

 

 

頭はいい。

 

 

数学じゃなくて、他の教科においてもだ。

 

 

でも優等生ではない。

 

 

頭がいいことをひけらかしてるわけでもない。人を見下してるわけでもなさそうだ。

 

 

でも鬼頭のどこかに彼女を退屈にさせる憂鬱の種がいつも潜んでいる。

 

 

それが何か、なんて僕には知る由もないが。

 

 

 

 

 

 

「鬼頭、一緒に帰ろうぜ」

 

 

昇降口で鬼頭と同じクラスの梶田が元気良く話しかけているのが見えた。

 

 

鬼頭は相変わらずけだるそうに

 

 

「えー、梶と?」なんて答えてる。

 

 

偶然僕がその場に居合わせて、すれ違う様にばっちり目があった。

 

 

 

 

 

 

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赤い薔薇の花びらが再び宙に舞う。

 

 

その場に鬼頭と僕だけになった。周りの景色が消えて背景が黒一色に染まった。

 

 

鬼頭と僕。周りには赤い花びら。

 

 

 

 

鬼頭は僕を見ると僅かに目を伏せてまばたきをした。

 

 

目を開いた瞬間、その口に赤い薔薇の花びらと同じような鮮やかな笑みを湛えて鬼頭は目を細めた。

 

 

 

何か含みがあるような、大人の女を思わせる妖艶な笑み。

 

 

 

 

 

視線が釘付けになる。

 

 

今まで見たどんな美しい光景より、美しいものより、それは輝いて見えた。

 

 

 

 

子供らしからぬ色っぽい笑顔。でもとても危険で、触れた怪我を負いそうな近寄りがたいもの。

 

 

 

 

 

赤い花びらが舞う。

 

 

ひらひら―――と。

 

 

僕の視界を赤一色に染める。

 

 

美しいと思う反面、僕は同時に恐ろしかった。

 

 

 

 

この色は悲しみを現しているのか。喜びを示しているのか。

 

 

それとも憎悪か―――

 

 

 

 

 

 

 

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「先生、今帰りですか?」

 

 

振り返ると、僕が受け持つクラスの楠 乃亜が鞄を両手で抱えて立っていた。

 

 

ふわふわの長い髪。白い肌。

 

 

可愛らしい顔立ち。

 

 

その背格好は鬼頭のそれと良く似ていた。二人並べるときっと姉妹みたいだな。

 

 

 

 

 

でも二人にははっきりとそれと違う雰囲気があった。

 

 

白と黒―――

 

 

 

 

光と影。そんな感じだ。

 

 

 

「帰りだけど。どうしたの?」

 

 

「じゃぁ途中まで一緒に」楠は笑った。鬼頭のそれとは違う。ひまわりのような明るい笑顔。

 

 

成績は優秀。真面目で友達の多い楠はクラスの生徒からも人気が高い。そんな楠は僕になついてくれた。

 

 

 

「先生……、恋ってしてます?」

 

 

並んで歩きながら唐突に楠が口にした。

 

 

 

「恋……?」

 

 

「先生は大人でかっこいいから、彼女いますよね」

 

 

「いや、残念ながら今はフリー」僕は苦笑いを漏らした。

 

 

楠は大きな目をまばたいた。

 

 

「先生が?意外。もてそうなのに」

 

 

「いやいや、ちっとも。楠はもてるでしょう?」

 

 

楠は曖昧にちょっと笑っただけだった。

 

 

 

 

「あたし……好きな人がいるの」

 

 

 

 

 

 

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そう楠の寂しい横顔が、赤い花びらに変わっていく。

 

 

「くすの……!!」

 

 

僕は必死に手を差し伸べた。

 

 

だけど、僕の手には軽やかな薔薇の花びらの感触しか残らない。

 

 

 

 

 

楠―――!!

 

 

 

 

僕は必死に叫んだ。

 

 

必死に手を伸ばした。

 

 

だけど後に残ったのは―――たくさんの花びらだけだった。

 

 

僕はその花びらを抱えて、がくりと膝をついた。

 

 

 

 

『神代先生!良かった、やっと連絡が繋がった』

 

 

夜中の電話。突如起こされた。相手は学校の同僚で美術の先生だった。

 

 

「どうかしたんですか?」

 

 

 

『楠が……楠 乃亜が!

 

 

 

 

 

自殺未遂で病院に―――運ばれました』

 

 

 

 

僕はその言葉を花びらを抱えながら、聞いた。

 

 

おかしいな……

 

 

 

これは夢なのに。

 

 

 

なのに、こんなにも涙が出る感触はリアルだ。

 

 

 

 

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「……い。先生」

 

 

先生―――!

 

 

そう呼ばれて僕は目を開けた。

 

 

薄暗がりの中に鬼頭の顔がぼんやりと浮かんでいる。心配そうに眉を寄せていた。

 

 

嗅ぎ慣れたタンドゥルプアゾンの香りが心地いい。

 

 

夢じゃない。等身大の鬼頭だ。

 

 

「……鬼頭…?」

 

 

「どうしたの?魘されてたよ」

 

 

「魘されてた?」

 

 

僕は自分の手のひらをじっと見つめた。暑くなんてないのに、じっとりと汗が浮かんでいる。

 

 

その手のひらを鬼頭がやんわりと握ってきた。冷たくて白い指先。

 

 

「今……何時?」

 

 

掠れる声を出して僕は両手で顔を覆った。

 

 

「明け方の5時」

 

 

5時……か。ソファに横になって一時間も経っていない。

 

 

最近特に眠りが浅い。不眠が続いてる。

 

 

まこにもらった薬を飲んでも、だ。

 

 

「ごめん、起こしちゃったね」

 

 

「別に起こされたわけじゃないよ。喉渇いたから水飲みにきただけ」

 

 

「そっか…」僕はちょっと微笑んだ。

 

 

「もう少し寝たら?」

 

 

「うーん。このまま起きる。寝れそうにないから」僕は顔から手をどけた。

 

 

鬼頭がちょっと微笑んで、

 

 

「そ?」と答えた。

 

 

 

夢で見た―――あの綺麗な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

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今日はエマさんと約束した土曜日。

 

 

昼前に鬼頭は私服姿で寝室から出てきた。

 

 

細身のジーンズに、黒いタートルネック。首からシルバーチェーンのネックレスがかかっていた。

 

 

黒い髪は耳の横で一つにくくってあった。

 

 

一瞬ドキリとしてしまう程、可愛くもあり普段の2倍も大人ぽくもあった。

 

 

生徒だということを忘れてしまいそうになる。

 

 

「出かけるの?」

 

 

「うん。そっちも?」

 

 

鬼頭は器用に耳にピアスをつけながらこちらを伺った。

 

 

僕もジーンズにシャツと言う私服に着替え終わっていた。

 

 

「どこまで行くの?僕も出かけるから送っていくよ」

 

 

僕の申し出に、鬼頭は首を振った。

 

 

「ううん。近いから大丈夫。それに休日に教師と生徒が一緒だったらおかしいじゃん」

 

 

「それもそっか」僕が迂闊だった。

 

 

どこへ行くんだろう。僕は鬼頭の普段を知らないからこの格好がめかしこんでいるのかどうか分からなかったけど。

 

 

ちょっと友達と遊んでくる、という風には見えなかった。

 

 

 

 

そう考えて、僕は鬼頭から顔を逸らした。

 

 

別に。

 

 

鬼頭がどこで何をしようが彼女の勝手じゃないか。

 

 

 

 

かく言う僕も、胸を張って会える相手じゃないから。

 

 

 

 

 

 

P.286


 

 

―――

 

 

午後3時。約束の時間だ。

 

 

駅前に構える“As庵”というカフェは外にオープンテラスもあるちょっと洒落た店で、夜にはダイニングバーにもなる。

 

 

まこ、とたまにコーヒーを飲んだことがある店でもあった。

 

 

さすがにこの時期、外でコーヒーを飲む客はいなかった。

 

 

 

 

 

白いテーブルに赤い薔薇の造花が一輪挿しに飾ってあって僕はドキリとした。

 

 

 

まるで見咎められているようだった。

 

 

 

まこに、鬼頭に、楠に―――

 

 

 

 

 

店内でホットコーヒーを頼むと、僕はタバコを吹かせながらエマさんを待った。

 

 

3口目かで、

 

 

「いらっしゃいませ~」と店員の声が聞こえ僕は顔を上げた。

 

 

白いコートに身を包んだエマさんだった。

 

 

僕は慌ててタバコを消し軽く腰をあげると、エマさんは慌ててこちらに向かってきた。

 

 

「こんにちは…」エマさんがぺこりと頭を下げる。

 

 

その表情はどこか緊張に強張っていた。

 

 

「奥へどうぞ」僕はテーブルの奥を指し示した。

 

 

エマさんはコートを脱ぐと、奥へ向かった。

 

 

コートの下は、淡いピンク色のニットワンピだ。首元にリボンがあしらってあった。

 

 

鬼頭とは180度違う格好だからかな。

 

 

それともシラフだからだろうか。

 

 

こうやって見るとそんなに鬼頭とは似ていない。

 

 

オーダーを取りにきたウェイトレスにエマさんはミルクティーを注文した。

 

 

ミルクティーが来るまでしばらくの沈黙があった。

 

 

 

何か切り出そう、と考えていると、

 

 

「あたしホントは合コンも気乗りしなかったの」

 

 

とエマさんの方から口を開いた。

 

 

 

 

 

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「……僕も、まこに無理やり引っ張っていかれた」

 

 

僕は思わず苦笑いを漏らした。

 

 

「実はね、あたし長く付き合ってた彼氏にフられちゃったばかりだったの。水月くんを見てちょっとびっくりしちゃった。ちょっと元彼に似てたから」

 

 

エマさんがちょっと恥ずかしそうに笑った。

 

 

意外だった。正直エマさんが僕のどこを気に入ったのだろう、と疑問を抱いていたから。

 

 

でもそっか。それなら納得がいく。

 

 

僕だってエマさんが鬼頭に似ていたという理由で親近感を持ったのだから。

 

 

 

 

人間なんてそんなものだ。

 

 

 

誰かの影を追って誰かを求める。

 

 

 

エマさんのミルクティーが運ばれてきた。淹れたてなのだろう、カップから湯気があがっている。

 

 

エマさんの前にミルクティーを置いてウェイトレスは去っていった。

 

 

 

「でも似てるのは顔だけ。ううん顔も良く見たら全然似てなかった。元彼は水月くんみたいに優しくもなかったし、かっこよくもなかった」

 

 

エマさんは眉を寄せるとカップを両手で包んだ。

 

 

「だけど水月くんといたら不思議だね、失った恋を取り戻せる気がしたんだ」

 

 

僕はコーヒーカップに口をつけた。

 

 

「買いかぶりすぎだよ。僕は女性に対して誠実でもないし、ついでに言うと君が思うほどかっこいい男でもない」

 

 

本当にかっこいいって言うのは、まこみたいな男を言うものだ。

 

 

 

 

 

「好きな人がいるって言ったよね。付き合ってるの?」

 

 

 

エマさんが唐突に切り出した。

 

 

 

 

 

 

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僕は首をゆるゆると振った。

 

 

「付き合ってないよ」さすがに付き合っていたのならエマさんとは寝ない。完全なる二股じゃないか。それはない。

 

 

「じゃぁ片思い?長いの?」

 

 

エマさんの質問に僕は目をちょっと細めてカップをソーサーに戻した。

 

 

「はっきりと気づいたのは一年ほど前かな?長いっていうのかな」

 

 

「一年も片思い……長いね。告白しないの?」

 

 

再度の質問に僕は答えることができなかった。

 

 

告えるはずがない。

 

 

告ったら最後だ。まこは、僕の前から永遠にいなくなってしまう。

 

 

こんな質問、普通なら答える気がしなかったのに、エマさんには伝えるべきだ、と思った。

 

 

彼女は知りたがっている。当然のことだ。

 

 

 

「告白は……しない。相手を苦しめるだけだから」

 

 

エマさんは目だけを上に向けた。

 

 

「やっぱり…水月くんは優しいよ。でも水月くんは?ずっと片思いなの?そんなの幸せになれないよ?」

 

 

幸せ……か。

 

 

僕は、まこを好きと自覚した時点で自分自身の幸せを求めることを放棄したも同然だ。

 

 

 

 

僕がどんな顔をしていたのだろう。

 

 

エマさんは、カップの取っ手をちょっと指でいじると、

 

 

「人に言えない関係なの?相手が結婚してる……とか…」

 

 

と言いにくそうに口でもごもごと呟いた。

 

 

 

 

 

 

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「いや、違う」

 

 

僕はきっぱりと言った。エマさんは人に言えない関係を何と思ったのかは分からない。けれど

 

 

「そんな脈のない相手を思ってるのなら諦めた方がいいんじゃない?自分の幸せのために」

 

 

エマさんは俯きながら、静かに言った。

 

 

「脈のない……か」

 

 

僕はどこか遠くを見るように脇にある薔薇の造花を見つめた。

 

 

まこから薔薇をもらったあの日から、僕の歩む道がいばらの道だと暗示していたのか。

 

 

あの薔薇は3日ほど美しく咲き誇って―――

 

 

そして儚く散っていった。

 

 

 

 

僕の思いも、そんな風に散ってしまったら―――どんなに楽だったろう。

 

 

僕はエマさんに視線を戻すと、彼女はきちんと前を向いていた。

 

 

僕はその視線に応えるように、

 

 

 

 

 

「僕が好きな人は結婚してる人でもない。亡くなった人でもない。

 

 

 

 

僕の親友で―――

 

 

 

 

男だから

 

 

 

 

 

僕が好きな人は林 誠人だから」

 

 

 

 

 

とエマさんの目をまん前から見据えてはっきりと言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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エマさんは最初何を言われたのか分からない、という感じで目をぱちぱちさせていた。

 

 

「え?ちょっと待って……水月くんは…男の人が好きってこと?」

 

 

「いや、違う。……僕はストレートだ。でも…結果的にまこを好きだから、そうとは言わないのか」

 

 

 

エマさんは何か奇異なものを見る目つきで目を細めた。

 

 

気まずい沈黙が降りてきた。

 

 

エマさんはしきりと僕とティーカップの間に視線をいったりきたりしている。

 

 

そこに何があるというわけでもないのに。

 

 

 

 

「……ごめん」

 

 

僕は小さな声で謝った。

 

 

謝ることしかできなかった。

 

 

エマさんは困惑したように、まだ眉を寄せている。

 

 

やがて、深く深呼吸して目を閉じると、すっと目を開けてこちらを見据えた。

 

 

何か言いたそうに口を開きかけたが、結局彼女の口から何かを告げることはなかった。

 

 

黙って、席を立つと小ぶりのバッグから財布を取り出し、500円玉を一枚取り出し、テーブルに置いた。

 

 

「これ以上話すことなんてないわ」

 

 

彼女の抜け落ちた表情がそう語っていた。

 

 

 

 

エマさんは無言で立ち去っていた。

 

 

ミルクティは一度も口につけられることなく、まるで置き去りにされた彼女の気持ちと同じように冷め切っているだろう。

 

 

 

テーブルの上では薔薇の花が場違いなほど、美しく咲き誇っていた。

 

 

 

 

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