TENDRE POISON 

~優しい毒~

『赤い糸』

◆午後4時の恋愛講義


 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

神代はあの誰だか分かんない相手から電話があったあと、目に見えて元気がなくなった。

 

 

もともとぼぅっとしてる男だったけど、いつもにも増して上の空だし、食欲があまりない。

 

 

あまり眠れていないようで、朝までリビングから灯りが洩れているのが途切れることはなかった。

 

 

「ねぇ、明良兄。男が悩むときってどんなとき?」

 

 

あたしは病院で別れた後の夜明良兄に電話をかけた。

 

 

神代はシャワーを浴びている最中だ。

 

 

連絡は極力避けていたけど、どうしても気になったからだ。

 

 

『そりゃ様々だろ。まぁ俺だったら女のこととか…』

 

 

「明良兄でも女絡みで悩むんだ」

 

 

あたしはちょっと笑った。

 

 

『あのなぁ、こう見えても結構考えるんだ』

 

 

「そ。明良兄、今付き合ってる彼女いるの?」

 

 

『…今は、いない』

 

 

明良兄はちょっと含みのある返事を返した。

 

 

「珍しい。明良兄でも途切れることがあるんだ」

 

 

『あのなぁ。俺をタラシみたいに言うなよ』

 

 

明良兄は電話の向こうでちょっとむくれてる。

 

 

『って言うか、ここ一年ほど彼女作ってない。乃亜があんな風になっちまって、とてもじゃないけど、そんな気になれなかったんだ』

 

 

 

あたしはちょっと目を伏せた。

 

 

そう。そう……だよね。

 

 

 

明良兄も、やっぱり血が繋がっていないとは言え妹があんな風になっちゃったら、考えるところはあるよね。

 

 

 

 

 

 

 

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『ところで。何だよ急に。神代と何かあったのか?』

 

 

「ううん。あたしとは何も。でも……」

 

 

あたしは神代が電話以来様子が変だと言うことをかいつまんで説明した。

 

 

『そりゃ間違いなく女だな』

 

 

きっぱりと明良兄は言い切った。

 

 

 

 

女……

 

 

保健医と何かもめてるのか?と考えたことはあった。

 

 

だけど、その後の二人の様子を見てるとそうでもなさそうだった。

 

 

「それはないわ。だってあいつは……」

 

 

と言いかけて、あたしは言葉を噤んだ。

 

 

神代が保健医を好きだという事実を明良兄にはまだ言っていない。

 

 

 

 

 

『気になるんなら調べてみろよ。あいつのケータイを盗み見るなんてお前には造作もないことだろ?』

 

 

ケータイを調べる。

 

 

考えなかったわけではない。

 

 

でも、それはさすがにあいつのプライベートを覗き見することで、気が引けた。

 

 

いやいや。あたしは復讐を誓ったんだよ。

 

 

ケータイを見るなんて、明良兄の言う通り造作もないことだ。

 

 

 

 

あたしが躊躇ってるのは……

 

 

 

きっと怖いからだ。

 

 

 

あいつの裏側を見て、何故だかとても傷つきそうだったから。

 

 

 

 

 

そう、あたしは恐れていた。

 

 

 

 

 

 

 

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明良兄と電話を切った後、あたしはリビングのテーブルに無造作に放ってある黒いケータイに手を伸ばした。

 

 

結局ケータイを見ることにした。

 

 

恐る恐る開く手が僅かに震えていた。

 

 

 

 

あたし……なにをこんなにビビッてんだろう。

 

 

 

 

でも一度、進んでしまった手は止まることはなかった。

 

 

電話がかかってきた日付と時間帯はしっかり記憶している。

 

 

着信は少なかった。

 

 

 

 

着信:12月5日 19:32 “実家”

 

着信:12月5日 21:17 “まこ”

 

着信:12月6日 12:34 “時田 琢磨”……これは友人だろうか。

 

 

次の一行を見てあたしは手を止めた。

 

 

着信:12月6日 21:35 “エマさん”

 

 

 

 

“エマさん”……

 

 

 

これだ!

 

 

 

神代はこの電話のとき、あたしの目を憚るように寝室に行った。

 

 

何か酷くいけないことをしているような、後ろめたい後姿だった。

 

 

 

 

 

カタン。

 

 

物音がして、あたしは慌ててケータイを閉じた。

 

 

 

“エマさん”

 

 

 

この女が神代を悩ませてることが分かった―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

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―――

 

 

 

金曜日

 

 

今日一日あたしは不機嫌モード。何故か胸の中で苛々がつかえてるんだ。

 

 

帰りのホームルームが終わる鐘の音が聞こえて、生徒たちが一斉に帰り支度にかかる。

 

 

「鬼頭」

 

 

梶はいつも帰り際声をかけてくる。

 

 

今日は何だろう。

 

 

少しめんどくさそうにあたしは顔をあげた。

 

 

「鬼頭、明日暇?」

 

 

何だろう、急に。

 

 

「何で?」

 

 

「や。あのさっ、明日お前んち行っていいかなって?へ、変な意味ないよ。期末試験も近いし、勉強一緒にしようかなって思って」

 

 

期末試験かぁ。もうそんな時期なんだ。

 

 

そう言えば数学の追試も来週だ。

 

 

 

「一緒に勉強するっつーっても俺は頭わりぃから鬼頭に教えてもらおうって魂胆だけど」

 

 

梶は恥ずかしそうに頭をかいた。

 

 

「って、やっぱ迷惑だよなぁ。そんなこと急に言われても」

 

 

 

 

「いいよ。勉強、一緒にしようよ。だけどあたしんちはちょっと無理」

 

 

あたしは何故かそう答えていた。

 

 

いつもなら断るはずなのに。

 

 

今日は何故だかむしゃくしゃしてたから、感情の捌け口に梶の誘いに乗った。

 

 

 

 

そう、苛立ってたのだ。あたしは―――

 

 

 

 

 

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次の日。

 

 

あたしが私服に着替えてリビングに行くと、神代も私服姿でテレビを見ていた。

 

 

ジーンズに、清潔そうな白いシャツ。襟の部分に花柄があしらってあって洒落たシャツだった。

 

 

黒いジャケットを手にしている。

 

 

一個ボタンをあけた、首元からきれいな鎖骨がのぞていて、シルバーチェーンがちらりと見えた。

 

 

 

 

 

初めて見る私服姿に、ドキリ…とした。

 

 

学校はスーツだし、寝巻き代わりに使ってるのは黒のスウェットだ。

 

 

 

 

「出かけるの?」

 

 

神代はあたしを見てちょっと微笑んだ。

 

 

 

 

柔らかい笑顔。

 

 

あたし、あんたのそうゆう笑顔嫌いじゃないよ。

 

 

そう思って、はっとなった。

 

 

 

 

「うん。そっちも?」

 

 

慌てて答える。あたしは耳にピアスをつけながら気持ちの動揺を隠した。

 

 

 

「どこまで行くの?僕も出かけるから送っていくよ」

 

 

神代、出かけるんだ……

 

 

 

どこへ?誰と?

 

 

そんな格好で誰と会うの?

 

 

あんな笑顔誰に見せるの?

 

 

 

もしかしてケータイに入ってた“エマさん”?

 

 

 

 

 

ヤだよ

 

 

 

 

あ。また不機嫌のスイッチが入った。

 

 

 

あたしは苛立っていることを隠すためゆっくりと首を振った。

 

 

 

 

 

 

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今日は結局、梶の家にお邪魔することになった。

 

 

もちろん二人きりじゃないよ。

 

 

梶のお母さんとお兄さんが家にいるって言ってた。

 

 

あたしはこの辺では有名なケーキ屋さんで人数分のプリンを買って、駅からバスで3駅のところにある梶の家を訪ねた。

 

 

梶の家は綺麗な一軒家だった。

 

 

インターホーンを押すと、中からドタッバタッと派手な音が聞こえて、梶が息を切らして扉を開けてくれた。

 

 

「鬼頭。おは、おはよ!」

 

 

あたしはちょっと笑った。

 

 

「何でどもってるの?」

 

 

「いや、別に。どもってねーよ」恥ずかしそうに目を逸らす。

 

 

その背後で、

 

 

「優輝~お友達見えたの?」と柔らかい声がして、女の人が顔を出した。

 

 

ピンクのエプロンをした綺麗な女の人だった。バニラの甘い香りがふんわりと香る。

 

 

「こんにちは。梶…優輝くんの友達で鬼頭と申します。えっと……」あたしは詰まった。

 

 

「優輝くんのお姉さん?」

 

 

「や。違う、違う!」

 

 

「ま!お姉さんですって。嬉しいわ~はじめまして。優輝の母です。さ、あがってください」

 

 

梶の―――お母さんと名乗った人はからからと笑うと、上機嫌であたしを家に招きいれた。

 

 

ちょっとびっくり。だって思ってたよりずっと若くて綺麗なんだもん。

 

 

「お邪魔します」ぺこりと頭を下げてあたしは玄関にあがった。

 

 

しまった……

 

 

あたし、今日ジーンズをブーツインしてきちゃった。

 

 

脱いでるのに戸惑っていると、

 

 

「はよ~、優輝の友達くるのって今日だっけ?」

 

 

とかすれた声が階段の段上で聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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濃いグレーのジャージ姿で髪がぼさぼさの男が階段を降りてくる。

 

 

どこか梶と面影が似ていた。

 

 

「兄貴、寝起きかよ。頼むから顔ぐらい洗ってきてくれ」

 

 

寝起きって、もう昼近くですけど。

 

 

「わーってるって」めんどくさそうに欠伸をした梶のお兄さんとばっちり目が合ってしまった。

 

 

「え?優輝の連れって女!?」

 

 

お兄さんは目を丸くすると、慌てて階段を昇っていった。

 

 

なんだあれ?

 

 

 

「ったく。ごめんな。騒がしくて」

 

 

「ううん。賑やかでいいね」あたしはちょっと笑った。

 

 

これはホントの意見。あたしんちはいつもあたし一人だったから。

 

 

明良兄ちゃんとはあんまり接触できないし、乃亜姉ちゃんは―――あたしの知らない遠いところに行こうとしている。

 

 

 

 

「可愛い子ね。まるでお人形みたい」

 

 

「ねぇ、優輝の彼女?だったらこいつやめて俺にしない?」

 

 

「何言ってんだよ、兄貴!」

 

 

絵に描いたような広いリビングで梶とお母さんと私服に着替えたお兄さんがあたしの持ってきたプリンを食べながら、あたしをじっと見る。

 

 

あたしは苦笑いを漏らした。

 

 

そんなに見られたらプリン食べられないんですけど。

 

 

「あたしは梶……優輝くんの友達です。恋人どうしってわけじゃ…」

 

 

「ふぅん。じゃ、優輝の片思いなんだ」

 

 

お兄さんはちょっと意味深ににやりと笑みを漏らすと、頬杖をついた。

 

 

 

 

 

 

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「な!違うからっ」梶が慌ててる。

 

 

あたしは曖昧に笑うことしかできなかった。

 

 

 

 

プリンを食べ終えると、あたしは梶の部屋に案内された。

 

 

部屋の扉は開けたまま。

 

 

「閉めないの?」って聞くと、

 

 

「こうしておくと、お前も安心だろ?」と梶が笑った。

 

 

梶のこと……嫌いじゃないよ。

 

 

むしろこうゆう気遣いが優しくて好き。

 

 

梶が密室であたしに何かしてくるとかも考えられない。

 

 

ううん、信じてるって言ったほうが正しいのかな。

 

 

 

 

 

でも、あたしは梶の彼女にはなれない。

 

 

それとも恋愛なんてこんなものなのかな。

 

 

嫌いじゃない。その言葉イコール好きではないけど、付き合うきっかけにはなるのかな?

 

 

 

 

 

でも変だね。

 

 

神代を見るときのドキドキとか苛々とか―――

 

 

 

 

そんな感情を梶には抱けないんだ。

 

 

 

 

 

 

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「It was after eight o'clock andmost of the  shops were closed.”8時が過ぎた。そしてほとんどの店が閉められた”という意味だけど、“ほとんど”という意味を表すにはいくつかあり、これをきちんと整理しなきゃいけないの」

 

 

あたしは英語の教科書の一文をシャープペンの先でなぞった。

 

 

「ふんふん」と梶は大人しくあたしの講義を聞いてる。

 

 

「まず注意すべきなのは「almost」が副詞であるということ。almostの次には形容詞か副詞がこなくてはいけないからこの場合4のmost of theが来るってわけ」

 

 

「鬼頭の説明は分かりやすいな」

 

 

梶が白い歯を見せてにこっと笑った。

 

 

「どうも。梶も覚えが早いから教えがいがあるよ」

 

 

嘘ではない。梶は実際思ってた以上に吸収が早い。真面目に勉強に取り組んだらそこそこの成績はとれると思う。

 

 

ちょっと休憩って意味であたしはペンを置いた。

 

 

 

 

折りたたみ式のテーブルの上に、教科書やらノートが散らばっている。

 

 

あたしは改めて梶の部屋をきょろきょろと眺めた。

 

 

梶の部屋は6畳ぐらいかな。男の子らしい、黒や青のインテリアが目立った。

 

 

神代の部屋では見ることがなかったサッカーボールや、ゲームのソフトが転がっていた。

 

 

 

 

明良兄の部屋に感じが似てる。

 

 

あたしは床に転がったクッションを手繰り寄せ、抱きかかえると後ろのあるベッドにもたれかかった。

 

 

梶もため息を吐きながら同じようにベッドに背をもたれさせる。

 

 

 

 

「雅……」

 

 

 

唐突に名前を呼ばれて、床に置いたあたしの手に梶の手が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「なに?急に」

 

 

一瞬ドキリとしたけど、あたしはなるべく平然として、その手から逃れるように指をずらそうとした。

 

 

だけど、梶の手がそれを阻む。

 

 

強い力。あたしがいくらもがいてもびくりともしない。

 

 

あたしはすぐ横に並んだ梶の横顔を見た。真剣な……表情だった。

 

 

「梶…ドア……開いてるよ?」

 

 

「知ってる。閉まってたらいいのかよ」梶の声がいつもより低くなる。

 

 

「そういう意味じゃないよ。手……」

 

 

 

 

梶の手に一層力が入った。痛いぐらいだ。

 

 

あたしが眉をしかめた。

 

 

「卑怯だよ」唐突に梶が口を開いた。

 

 

え?

 

 

「だって今日の鬼頭、可愛すぎるんだもん。……卑怯だよ」

 

 

梶の手が緩んだ。その隙にあたしが梶の手から逃れるように手を離そうとしたら、梶の手があたしの腕を掴んで、強く引き寄せた。

 

 

もちろん、怪我をしていない方のだけどね。

 

 

あたしはバランスを崩して梶の胸に顔をぶつけた。

 

 

「ったー」

 

 

「好きな子と部屋で二人きりになって、何もしたくない男っていると思うか?」

 

 

梶の声が一段と低くなった。

 

 

 

 

 

 

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そういうものなの?

 

 

あたしは梶の胸の中で色々なことを考えた。

 

 

こんなことになっても梶にドキドキした感情を抱けない。

 

 

 

 

一つ屋根の下で暮らしてる神代はあたしにそんな素振り一ミリも見せない。

 

 

それはあたしに一寸の恋愛感情がないから?

 

 

でもあたしは神代に時々ふいにドキッとさせられる。

 

 

あたしは神代を殺したいほど憎んでるのに―――

 

 

 

逆に神代は、あの保健医と二人きりになってこういうことしたいと思ってるのかな。

 

 

以前、保健医はあたしに迫ってきた。もちろんあれは脅しの意味で本気じゃない、と思うけど。

 

 

それでも、男って何でこういうことしか考えられないんだろう。

 

 

それに恋する女ってのも分かんない。

 

 

 

 

だめだ。

 

 

 

やっぱり分かんない。

 

 

数学の公式を解いてるときや、英語の文法を解いてるときのほうがよっぽど楽だよ。

 

 

 

 

あたしは怪我をしてない方の手で梶を押しのけた。

 

 

 

 

 

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「帰る」

 

 

短く言うとあたしはテーブルの上の教科書やらノートを片付けた。

 

 

「鬼頭……?ごめん、怒った?」

 

 

いつになくしおらしくうなだれた梶が心配そうにあたしを見た。

 

 

「ううん。これ以上一緒にいたら、梶に申し訳ないから」

 

 

「それって俺の気持ちには応えられないってこと?」

 

 

「違うよ」

 

 

あたしは鞄に教科書を詰める手を休めた。

 

 

「分からないから。あたしはまだ恋愛が何なのかその答えがわかってないから」

 

 

あたしは梶のようにまっすぐに誰かを思うことができない。

 

 

かと言って明良兄のように気軽にもなれない。

 

 

乃亜のように、誰かを想って死を選ぶ気持ちも分からない。

 

 

 

 

神代のように―――

 

 

 

身がよじれるほどに苦しい思いをしたことも……ないから。

 

 

 

 

―――

 

 

あたしが帰ることを梶は引き止めなかった。

 

 

「バス停まで送るよ」

 

 

「いいよ。近くだし」

 

 

これ以上梶に甘えるわけにはいかない。

 

 

「あれ?雅ちゃん、帰っちゃうの?」

 

 

お兄さんがリビングからひょいと顔を出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「俺、今からコンビニ行くとこなんだよね。バス停途中だから送ってくよ」

 

 

「え?いいですよ。悪いですし」

 

 

「そうだって、俺が送るし兄貴はコンビニ行ってろよ」

 

 

梶がムスッとして答えた。

 

 

「ついで、ついで。気を使うことないよ」

 

 

お兄さんは気軽そうに笑った。ちょっと感じが明良兄に似てるかも。歳も近いし。

 

 

「じゃぁ、バス停まで」あたしは頷いた。

 

 

「ちょ!いいって。俺が送ってくよ」

 

 

何をムキになってるんだろう。途中だったらホントについでだし。

 

 

それに今は梶と二人きりで歩くのが、正直辛かった。

 

 

「いいって。悪いし。じゃ、また明後日ね。バイバイ梶」

 

 

「バイバ~イ♪」

 

 

何故かお兄さんは楽しそうに梶に手を振って玄関の扉を閉めた。

 

 

半ば強引に玄関を出て、あたしはお兄さんとバス停まで一緒に歩くことになった。

 

 

 

 

 

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「ねぇ、雅ちゃん。付き合ってる奴いるの?」

 

 

お兄さんは唐突に聞いてきた。

 

 

「いません」あたしは短く答えた。

 

 

「いいね~。はっきりした子。俺好きよ?」

 

 

「はぁ」

 

 

「付き合ってない奴がいないんなら、俺と付き合ってよ」

 

 

は?

 

 

「何言ってるんですか?意味わかんない」

 

 

「意味なんて追求してたら恋愛なんてできないよ」

 

 

お兄さんはにっと口角をあげて笑った。笑い方が梶に似てる。

 

 

「お兄さんはあたしのこと好きなんですか?今日あったばかりなのに」

 

 

あたしの問いにお兄さんは「ん~」と唸った。

 

 

「好きとかじゃないかも。ただ、俺の好みの顔してるんだよね。ついでに言うと声も。優輝と俺好みの女のタイプも似てるみたい」

 

 

あたしは目を細めた。

 

 

「ばっかみたい。そんなんで簡単に付き合うとか言う?」

 

 

梶のお兄さんと言うことを忘れてあたしは思わず本音をぶつけた。

 

 

「いいねぇ。気が強いとこも結構好き♪それに恋愛に時間なんて必要なくない?顔が好きってのも立派な理由になると思うけどね」

 

 

あたしは冷めた目でお兄さんを見上げた。

 

 

お兄さんの言ってることは理解できない。

 

 

 

「好きなことに大義名分が必要なの?」

 

 

大義名分…随分な物言いだ。

 

 

あたしはいつでも物の存在する意義や理由を考える。

 

 

それは恋愛感情だって同じ。

 

 

一時の感情だけで、流されるのがバカらしいと思ってるから。

 

 

だけど、人には目に見えない何か強い感情で人に惹かれる瞬間がある。

 

 

まるで引力のように。

 

 

 

 

そういう意味ではお兄さんの言ってることは一部で正しいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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でも……

 

 

「ね、だから付き合って?」

 

 

お兄さんがあたしの顔を覗き込んだ。軽く片目をつぶってウィンクしてる。

 

 

「絶対楽しい思いさせる自信あるし」

 

 

あたしはお兄さんを思わず睨み上げた。

 

 

 

 

「寂しい人。あなたは知らない。

 

 

大切な人を思って眠れないことがあることも。

 

 

大切な人のことを思って、泣きたいほど辛いことがあることも。

 

 

時にはそれが―――死をもたらすことを」

 

 

 

そう、それが恋。

 

 

 

お兄さんはちょっとびっくりしたように目をぱちぱちさせた。

 

 

「驚いたな。ただの女子高生だと思ってたのに。君は何者?」

 

 

 

それ、以前保健医にも言われたっけ。

 

 

 

 

「ただの女子高生ですよ」

 

 

じゃ、と短く言ってあたしはお兄さんを置き去りにしてその場を足早に去った。

 

 

 

 

 

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