TENDRE POISON
~優しい毒~
『はじまりの予感』
◆午後4時の憂鬱◆
◇◇◇◇◇◇◇◇
「鬼頭!帰るの?」
ふいに呼びかけられて、あたしは振り返った。
同じクラスの梶、こと梶田 優輝(Yuki Kajita)だった。
あたしが唯一クラスで親しくしてる男子。
親しく、って言っても友達かと聞かれれば「No」と答えるだろう。別に好きでつるんでるわけではない。
梶が一方的に懐いてきて、最初は適当にあしらってたものの、こいつはくじけず纏わり付いてくるから何となく仲良くしてるって程度。
「帰るよ」
「なら途中まで一緒に帰ろうぜ」
にぱっと人懐こい笑顔を浮かべると、梶はあたしの近くに顔を寄せた。
あたしは露骨に顔をしかめる。
「やだよ。一人で帰って。何であたしが梶と?」
「梶く~ん♪あたしたちと一緒に帰ろぉよ」
すぐ近くで同じクラスの女子たちの声が聞こえた。
梶は一見してチョイ悪なヤンキーだけど、何故か女子から人気があった。
こんなやつのどこがいいんだか。
「呼んでるよ」
あたしの冷たい声にも、梶は堪えてないみたいで苦笑しながらも拝む仕草をする。
「傘ないんだ、いれてってよ」
「やだよ。めんどい。あの誰かに入れていってもらえば?喜んで入れてくれるよ」
あたしは梶を呼んでいた女子たちを目配せ。彼女たちはちょっと不機嫌そうにあたしの方を睨んでいる。
「鬼頭のがいいもん」とまたも言い返される。
「だからいやだ、って」
しれっと言い、あたしは傘をさした。
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「おじゃま♪」
梶は強引にあたしの傘に入り込んでくる。
「ちょっと!」
「固いこと言うなよ。駅までだから。な?」
「駅までね」
面倒だけど、それ以上に断るのも面倒。そう言うことで、あたしたちは肩を並べて歩き出した。
遠くの方から女子たちの悪意ある視線が突き刺さるようだったけれど、気にしない。
でもあたしの小さな傘じゃ二人入るのはやっぱり無理で、駅につく頃はべたべたに濡れていた。
梶に文句を垂れながらも濡れたまま電車に乗り、何とか家に着く。
鍵を開けようと、鍵穴に鍵を差し込んだけど何か違和感があってあたしはドアノブを回した。
「あれ?開いてるや。あたし家出るときちゃんと閉めたはずなのに」
あたしの両親は海外で仕事してる。
だからこの家にはあたし一人。
な、筈なのに……
玄関には見慣れた男物の靴があった。
あたしは急いで玄関に上がると、リビングまで走って行った。
扉を勢いよく開ける。
「明良兄!」あたしは笑顔でお兄を呼んだ。
「よっ!」
明良兄はソファにあぐらを掻いてくつろいでいた。
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明良兄は乃亜のお兄さん。あたしのお兄役でもある。
昔はよく一緒に遊んだな。
大きくなって明良兄はかっこ良くなって、女の人とたくさんお付き合いしてて、あたしなんてかまってくれないと思ってたけど、昔と同じように可愛がってくれる。
「ホントは一緒に帰りたかったんだけどさ。お前が学校では他人のフリしろって言うから」
明良兄は口を尖らせた。そう、明良兄が言った通り、あたしたちは同じ学年の一年、明良は三年だ。
学年が違うと教室のある階数も違うし、昇降口の列も違う。顔を合わすことはあまりないけれど、それでも学食なんかで顔を合わせることがある。
例え視線が合ったとしても、互いに無視を決め込んでいる。もちろん、そうしようと決めたのはあたしだけど。
「だって、神代に変に勘ぐられたこっちが困るじゃん。あたしと明良兄に接点があったらだめなんだよ」
あたしは濡れた制服のブレザーを脱ぎながら答えた。
ついでにブラウスも脱ぐ。
「そう言うけど、神代に近づけてるのか……」と言いかけたところで明良兄は慌てて顔を逸らした。
「おまっ……こんなところで脱ぐな」
「え~、いいじゃん。べたべたで気持ち悪いもん。それにキャミ着てるから大丈夫」
「そういう問題じゃない!」と言って明良兄が更に顔を逸らす。
その横顔がちょっと怒ってるようにも見えた。
「じゃあどういう問題?」
あたしは明良兄の横に座って、彼の膝に手をついた。
「どうって……」明良兄は怒った表情から一転、今度は困ったように眉を寄せる。
「お前……そうやって神代に迫ってるのか?」
明良兄がまたもちょっと怒ったように眉を吊り上げた。
そうやって……?
あたしは自分の格好を見下ろす。
レースをあしらった黒いキャミソールに、制服の短いスカート姿だった。
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あたしは濡れた髪をちょっと掻き揚げた。
「あいつは色仕掛けじゃ落ちないよ」
あたしの言葉に明良兄はちょっとまばたきした。
目がどうして?と語っている。
「だって学内で一番きれいな三年の先輩が神代に迫ったらしいけど、だめだったっていう噂だもん」
「へぇ。そんな話聞いたことねぇや。単にタイプじゃなかっただけじゃね?だってあいつ・・・・・・認めたくないけど、女生徒にモテるんだぜ?」
「あたしが入学してから数ヶ月探ってたけど、そうゆう噂は聞いたことがない。特別女生徒を贔屓扱いしてないし。
何て言うか、生徒の方も神代をアイドル扱いしてるだけ、って感じで。
それともよっぽどうまくやってるかのどっちかだね」
ま、あたしとしては後者の線が強いと思うけど。
「じゃ、これから先どうするんだ?」
明良兄の問いにあたしはのんびり答えた。
「気長にやるわよ。ま、少しずつ仕掛けはしていくつもりだけど」
口の端でにっと笑う。
明良兄はちょっと息を呑んで口をつぐんだ。
実際、仕掛けはした。
これで神代が乗ってくるか……
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次の日の午後からも雨が降った。
しとしと、と教室の窓を打ち付ける雨の粒を恨みがましく睨んだ。
天気予報では一日晴れだっていってたのに。
だから今日は傘を持ってきていない。
止むまで待つ・・・・・・?駅まで走ろうか・・・コンビニで傘を買うのはもったいな~・・・
そんなことをぼんやりと考えていると、
「鬼頭」
名前を呼ばれた。
神代だ。
帰りのホームルーム前で、と言ってもホームルームで話すことなんてほとんどない。たまに行事なんかの連絡事項を伝えるだけで5分にも満たない。
だからみんな早く帰りたそうにしている。
「はい」あたしは無愛想に返事を返す。
「今日、放課後、数学準備室に来るように」
神代は腕を組んで、あたしを見下ろしていた。
あたしはふっと視線を逸らすと、神代の見えない角度でふっと笑った―――
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◆◆◆◆◆◆◆◆
僕は今、鬼頭 雅と向き合っている。
放課後の数学準備室―――
準備室自体はあまり広くない。約六畳程だが、常勤の教師は『準備室』と言う名の個室を与えられていて、それぞれ授業の準備や研究に利用できるのだ。
僕の『数学準備室』は授業で使う教科書はもちろん、授業に利用できそうな参考書やこれまでのテスト問題や解答などのプリントをファイリングしたファイルやらが詰まった本棚が片側の壁に立っていて、部屋の中央には仕事をするためのデスクが置いてある。その他、授業で使う大きな定規や分度器やコンパスと言う備品は個人で用意したカラーボックスに収まっている。
「白紙で答案用紙を提出ってどういうことだ?」
その中央の机を挟んで椅子にきちんと腰掛けてる鬼頭に僕は答案用紙を突きつけた。
「どうって、意味なんてないよ」
ぞんざいに言って、優雅に髪を掻き揚げる鬼頭。最近の生徒はあまり敬語を使わないが、いちいち気にしてない。
けれど、状況が状況だ。
まるで反省の色が見えない鬼頭に、何か言い返そうと思ったが、彼女が髪を掻き揚げた
その瞬間、とても良い香りが香ってきたのだ。
言い返そうと思って口を開きかけたが、思わずその口を閉じた。
ちょっと甘くて爽やかで、それでいて上品さがある。
何だろ?香水かな?
その香りは鼻にとても心地よい。
ずっと嗅いでいたいような、落ち着く香りだった。
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掻き揚げた髪の隙間から白い耳たぶが見えた。
ぎっしりとピアスがささっている。軟骨部分までもある。
ピアスは校則違反だ。だけど僕は敢えて咎めることはしなかった。
咎めたところで「みんなやってることだし」と言い返されるに決まってる。
でも僕はちょっと顔をしかめた。
「ピアス……痛くないの?」
「え?ああ」
鬼頭はちょっと考えるように首を傾けたが、すぐに
「平気」と言って目を伏せた。
長い睫が降りて、白い頬に影を作る。
少女のような可憐さと、大人の女の妖艶さを持ち合わせていて、そのアンバランスな色気が妙に色っぽい。
とてもきれいだった。
僕は思わず見とれていた。
だがすぐはっとなって、
いや、相手は生徒だぞ!
それに僕には好きな人がいるんだ―――
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「と、とにかくどういうつもりなんだ?」
場違いにも鬼頭に見とれていた自分の考えを打ち消すように、僕は再度強めに聞いた。
鬼頭は顔を上げるとちょっと面倒くさそうに眉を寄せた。
「追試で60点以上取れれば、赤点は免れるんでしょ?だったらいいじゃん」
「そういう問題じゃない!」
怒鳴ってしまったあとはっとなった。
確かに鬼頭の言った通り追試で60点以上取れば、問題ないが・・・・・・だが、鬼頭が今回の試験で低成績・・・・・・どころか何も書かずに提出してきた、ってことに問題があるのだ。
慌てて取り繕うように怒りの表情を沈めた。
「君は僕が嫌いなのか?」
今まで生徒に好かれたことはあっても嫌われてるとはあまり感じなかった。
だから自分で言ってちょっと落ち込んだ。
「嫌い?」鬼頭はちょっと妖艶に微笑むと、
「嫌いなわけないじゃん」と身を乗り出してきた。
「その逆。あたしは先生が好きなんだよ」
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アタシハ先生ガ好キナンダヨ。
「お、大人をからかうんじゃない!」
「別に。からかってなんかないし」
また髪を掻き揚げ鬼頭は面倒くさそうに呟く。
雨の匂いに混じって、またあの香りが漂ってきた。
「まったく……。反省していないようだね。分かった。確かに君は追試で合格に十分な点数を取ることができるだろうがね。春休みまでの半年間、僕の助手をするように」
鬼頭がどうして白紙で試験を提出してきたのか理由は分からなかったし、たとえ追試を受けたとしても満点に近い点数を上げることは確実だ。となると、鬼頭が今回白紙で提出してきた理由が分からなくなる。
「なにそれ?」鬼頭は眉間に皺を寄せた。
綺麗な顔立ちだけに迫力がハンパない。
僕は怯みながらも、
「これは罰だ。いいね」
と言い切った。
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