TENDRE POISON
~優しい毒~
『赤い糸』
◆午後7時の懺悔◆
◆◆◆◆◆◆◆◆
「寝たって、先生最低だよ!」
そう言われて罵られたほうがまだ良かった。
鬼頭は初めて僕の前で涙を見せた。
声もなく無表情に。ただ静かに涙だけが、零れ落ちていた。
正直、驚いた。
鬼頭は何も言わずに僕に背を向けた。
そこでようやくはっとなった。
「鬼頭!鬼頭待ちなさい!」
必死に声を投げかけたが、先を急ぐ彼女の背中にその言葉は届かなかった。
「追いかけないで!」
エマさんが僕の袖にすがり付いてくる。
乱暴に振り払うこともできずに、僕は視界の端から鬼頭が消えていくのをただ見守るだけしかできなかった。
そうこうしてる内に僕の部屋の隣の住人が、何事かと顔を覗かせた。
僕は慌ててエマさんを部屋の中に引き込むと慌しく扉を閉めた。
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「……あの、あたし急に押しかけてごめんなさい。でもどうしてもさっきの言葉が納得いかなくて」
「さっきって?」
この言い方は冷たかったかな?
体中から力が抜けた。糸を切られたマリオネットのように僕はだらりとソファに身を沈めた。
「誠人くんが好きだって言うこと」
「納得いかなくても、それが変えようもない事実なんだし……」
「じゃぁあの子とは何もないの?」エマさんが言葉を被せる。
「何もって、そもそも彼女は生徒だ。そんな目で見られないよ」
僕は嘘をついた。
小さな嘘を。
「だって一緒に住んでるみたいだった」
「ちょっと預かってるだけだって言ったろう。第一彼女未成年だ。一緒に住めるはずがない」
いつもより言葉尻がキツくなった。どうしようもない苛立ちを感じているのは確かだが、その苛立ちを彼女にぶつけるのは間違っているとすぐに気づいて俯いた。
どうしてこうなのだろう。
エマさんは僕を好きだと言った。
好きだったら、その人の言葉を信じるべきじゃないのだろうか。
いや、これは僕の勝手な言い訳だ。
エマさんが疑うのは当然のことだ。
好きだから、疑心暗鬼になる。
好きって気持ちはどうしてこう厄介なのだろう。
全ての考えを拭い去りたくて僕は顔を覆った。
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「…ごめん……なさい」
エマさんが僕の足元に来て腰を落とした。
「あなたがあの子のことを好きじゃなくても、あの子はあなたのこと好きそうに見えたから」
僕は手を退けてエマさんを見下ろした。
「鬼頭が?まさか」
ちょっと自嘲じみた笑いが洩れる。
「僕のことを嫌ってるよ」
少なくとも今日の出来事で嫌われたも同然だ。
「それに謝るほうは僕のほうだ」
エマさんは小首をかしげた。
「ごめん。
ホントにごめん。
好きになれなくて……ごめん」
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エマさんの黒い瞳にどんどん涙が溜まっていく。
「僕は酷い男だ。君にふさわしくないよ」
「…そんな……こと言って、あたしが納得すると思う?」
エマさんは気丈にも僕を睨み上げてきた。
「“ごめん”だなんて、いっぱしにフったみたいな言い方しないでよ!」
「じゃあどうすればいい?僕が殴られでもすれば君の気が済む?」
僕はエマさんの目をじっと見つめた。
逸らしてはいけない。
それが唯一僕にできることだ。
「そんなんで気が済むわけないじゃない!でもそうね、殴っておいてもいいかも」
エマさんの目から大粒の涙が流れた。
「いいよ。君の好きにして」
僕は目を閉じた。
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エマさんの甘い香水が鼻の下をくぐる。
女性に殴られるなんて初めてだ。
いや、初めてじゃないか。昔はよく姉さんに叩かれたな。
そんなことを考えてると、
フワリと僕の額に優しい感触がした。
それはエマさんの唇の感触だった。
両頬を温かい手が包んでいる。
エマさんは唇を離すと、
「あなたは優しいひと。
あたしとのことに背を向けないで、ちゃんと事実を受け入れてくれた。
自分の気持ちに正直で、素直なひと。
元彼に似てるって言ったけど全然違う。
でも、それと同時に残酷なひと」
僕の目をまっすぐに見返してきたその表情はつるりと無表情だった。
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エマさんは去っていった。
「残酷なひと」
突き刺さるような言葉だった。
暖房をつけていない部屋はひんやりと寒かった。
部屋の明かりもつけてない。テレビはだけがDVDモードから地デジ画面に変わっていて、くだらないバラエティ番組が流れている。
何もする気になれなかった。ただぼんやりと空を眺めているだけ。
ただ一つ気がかりなことは、
鬼頭……どうしたかな?
軽蔑したよね。
好きな人がいるのに、流されて簡単に違う女の人と寝ちゃって。
~♪
出し抜けにケータイが鳴った。静まり返った部屋にその音がやけに響く。
着信:まこ
僕は通話ボタンを押した。
『鬼頭 雅は預かった。返してほしくば月曜日の昼飯を奢れ』
「まこ、今は冗談に付き合ってる気分じゃないんだ」
そっか……
鬼頭は、まこのところへ行ったか。
その辺をふらふらしてるより、まこの家の方が安全だ。
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『何だよ、つれないな』
まこは不服声。
『何だよお前ら喧嘩でもしたわけ?』
まこは何も事情を知らないようだった。鬼頭、まこに話してないんだな。
そのことに不謹慎ながらもちょっとほっとする。
「喧嘩って程でも……まこ、ちょうど良かった。鬼頭を2、3日預かってくれないか?」
『……いいけど、何か深刻そうだな』
「事情は全部話すよ。今から来れない?鬼頭の荷物も持ってやってってほしいんだ」
『分かった。今から出るわ』
うん、よろしく。と答えて僕は通話を切った。
手の中のケータイを見つめる。
逃げ回るのはもう止めた。僕は二人の女性を傷つけた。
話さなければ。
全て打ち明けなければ。
とうとうその時が来たんだ。
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まこは20分も経たない内に来た。
「飲んでなくて良かったぜ。ったく、お前らには世話やかされるよ。で?何があった?」
到着するなりまこはせっかちに聞いてきた。
僕は渋るまこをリビングに招きいれ、コーヒーを出した。
まこはどっかりとソファに腰を下ろし、僕はその隣に遠慮がちに座った。
なにから切り出そう、と考えていると、
「お前、鬼頭をフったの?ありゃ手ひどい失恋しましたって顔だったぜ」
「失恋……、どうなんだろ。鬼頭は僕のことどう思ってるんだろ?」
僕は膝の上で組んだ手の指をちょっと動かせた。
まこは目だけを動かして僕をちらりと見ただけだった。
「さあな。でも嫌ってるってわけじゃなさそうだけど。お前って昔からその気のない女にモテるよな」
「その気のない……か。僕は酷い男だ。残酷なひととも言われたな」
「誰に?」
まこがちょっと興味深そうに前かがみになった。
「エマさんに」
僕もまこと同じように上体を前に倒して、同じ目線で彼を見て微笑んだ。
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「何でエマちゃんが出てくるんだ?お前あの子と何かあった?」
「彼女と……寝た」
まこはちょっとびっくりしたように、目を見開いた。
「それはまぁ……何というか。で?付き合うのか?」
なんて答えていいのか分からないという感じで当たり前の返事が返ってきた。
僕は静かに首を横に振った。
「何で……」と言いかけたところを、
「好きな人がいる」と僕は思いのほか大きくてしっかりした言葉をかぶせた。
僕の発言にまたまこは驚いたようだ。ちょっと目をみはると、ごくりと喉を鳴らした。
「何だよ、全然知らなかったぜ。お前そんな素振り少しも見せなかったし。それでエマちゃんをフったのか?」
まこは別に怒ってるという風でも、呆れているというのでもなかった。
ただ、淡々としていた。
ちょっと拍子抜けした。
「僕のこと軽蔑しないの?好きな人がいるのに、他の女の人とセックスなんて」
「軽蔑?そんなんでするかよ。エマちゃんは可哀想だけど、お互い大人なんだしその辺は割り切るだろう。
でも、なるほどねぇ、それで鬼頭が怒って出ていっちまったってわけか」
妙に納得したようにまこが頷いた。
そして何か難しいことを考えるように、頭を乱暴にがしがしとかく。
「まぁあれぐらいの年頃って難しいからなぁ。経験だって浅いし、考え方だってずっと幼いから」
そう、確かに僕にもそういう時代があった。
まだ、大人の世界がこんなにも薄汚れてなくてキラキラしたものだと信じてた頃が。
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「でも、何でエマちゃんとヤッたわけ?」
まこがしんみりした空気を追い払おうと、わざとおどけて笑った。
「ヤッたって…。何となく、流れで……。でも最低だよね。好きな人に告白する勇気もないくせに、近くにいる人を傷つけた」
まこは穏やかな笑みを浮かべて、僕の頭を軽く叩いた。
「そういうときもあるって。どんなに想っても叶わない恋だとか、どんなに好きでも障害があるとか、そいうときは心も体も寂しくなって、つい近くにある人間にすがりたくなる。
これは男だとか、女だとか関係ないな。人間そういう風にできてるんだよ。
で、過ちを犯したあとになって気づくんだ。自分は何て愚かなことをしたんだって。でもお前はそれを反省できる人間だ。
やっちゃったことは消えないけど、これからその経験をいかせばいいじゃんね?」
まこの……言葉が心に心地よく沈む。
そうだった。
まこは、昔から僕の心を軽くしてくれる。
がんじがらめになった僕の心をいつだって解きほぐしてくれる。
まこ―――
「好きだよ」
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「サンキュ。俺もお前のこと好きだよ。俺の数少ない友達だ」
まこは、にひひと照れ笑いを浮かべた。
僕は哀しくふっと笑みを漏らした。
「違うよ。友達、としてじゃなくて。
恋愛の対象として、ってこと」
まこが目を一層大きく開いた。形の良い唇がきゅっと結ばれる。
「僕はまこが―――、いや、
林 誠人にずっと恋してた」
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「ちょ、ちょっと待て!お前が?俺のこと好き?それは昔から?ゲイってこと?いや、昔はお前女と付き合ってたよな?同棲もしてたし」
まこは慌てふためいて、誰に問いかけるわけでもなく疑問を口にした。
無理もないか。いきなり男から告白されれば、まこでなくてもストレートの男なら驚いて、慌てるに違いない。
「ゲイじゃないよ。僕は女の子が好きだ。好きな芸能人もみんな女性だし。いつからだなんて、はっきりとは分からないな。気づいたら、ずっと君を目で追ってった。
最初は戸惑ったさ。ああ、僕は君に恋してるんだなって」
まこは僕の言葉に目を逸らそうとしなかった。
嫌悪感を現さなかった。
そのまっすぐな視線が、今の僕には痛い。
僕はまこの目から逃れるように、顔を逸らした。
「ごめん、気持ち悪いよね」
握った拳が震えていた。
「ずっと……隠してたのか?その気持ちを」
言えるわけない。
エマさんとの一件がなくて、鬼頭を傷つけなかったら、一生言うつもりなんてなかった。
ただ、それは一生逃げ回ることを意味してた。
まこへの気持ちから。
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「水月」
ふいに名前を呼ばれたけど、僕は顔をそちらに向けることができなかった。
「水月、こっち向けよ」
ふいにまこの両腕が伸びてきて、僕の両頬を温かい手のひらが包んだ。
そのまま、まこの方へと顔を向かされる。
まこは切れ長の瞳を細めていた。
その瞳の奥が切なげに揺れていた、ように見えた。
「ごめんな、気づかなくって」
まこはそう言うと、僕の額にちゅっと音を立ててキスをした。
柔らかい唇の感触。
僕は目を見開いた。
心臓が―――止まるかと、思った。
唇を離すと、まこは僕の顔を覗き込んだ。
「俺は、お前を親友にしか見れない。でも親友としては、俺も大好きだ。
ごめんな。気持ちに応えられくて」
僕は開いていた目をゆっくりとまばたきして目尻に溜まった涙を流さないよう、必死に泣きたいのをこらえた。
「ありがとう。それだけで充分だよ」
ありがとう、まこ。
ようやく、僕の気持ちは鎖を外されて、自由に飛び立つことができた。
苦い後悔と、甘い恋心をようやく開放できた。
鬼頭、エマさん……僕は少しは許されただろうか。
神は何も答えてはくれなかった。
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